■養老 謡
ワキ、ワキツレ 真ノ次第
風も静かに楢の葉の。風も静かに楢の葉の。鳴らさぬ枝ぞのどけき。
ワキ詞
抑これは雄略天皇に仕ヘ奉る臣下なり。さても濃川本巣の郡に。不思議なる泉出でくる由を奏聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。
唯今濃州本巣の郡へと急ぎ候。
道行三人
治まるや。国富み民も豊にて。国富み民も豊にて。四方に道ある関の戸の。秋津島根や天ざかる。鄙の境に名を聞きし、美濃の中道
ほどなく養老の滝に着きにけり養老の滝に着きにけり。
シテ、ツレ 真ノ一声
年を経し。みのゝ御山の松蔭に。なほ澄む水の緑かな。
ツレ二ノ句
通ひなれたる老の坂。
二人
行事安き心かな。
シテサシ
故人眠早く覚めて。夢は六十の花に過ぎ
シテツレ
心は茅店の目にうそぶき。身は板橋の霜に漂ひ。白頭の雪は積れども。老を養ふ。滝川の。水や心を。清むらん。
下歌
奥山の。深谷の下のためしかや。流を汲むと。よも絶えじ流を汲むとよも。絶えじ。
上歌
長生の実にこそ。長生の実にこそ。老せぬ門はあるなるに。これも年ふる山住の。千世のためしを。松蔭の岩井の水は薬にて。
老を延べたる心こそ。なほ行く末も。久しけれなほ行く末も久しけれ。
ワキ詞
いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。
シテ詞
此方の事にて候ふか何事にて候ふぞ。
ワキ
おことは聞き及びたる親子の者か。
シテ
さん候これこそ親子の者にて候へ。
ワキ
これは帝よりの勅使にてあるぞとよ。
シテ
ありがたや雲井遥に見そなはす。我が大君の詔を。賎しき身として今承る事のありがたさよ。これこそ親子の民にて候へ。
ワキ
さてもこの本巣の郡に。不思議なる泉出でくる由を奏聞す。急ぎ見て参れとの宣旨に任せ。これまで勅使を下さるゝなり。
先々養老と名づけ初めし。謂を委しく申すべし。
シテ
さん候これに候ふはこの尉が子にて候ふが。朝夕は山に入り薪を採り。我らをはごくみ候ふ所に。ある時山路の労にや。
この水を何となく掬びて飲めば。世のつねならず心も涼しく労も助かり。
ツレ
さながら仙家の薬の水も。かくやと思ひ知られつゝ。やがて家路に汲み運び。父母にこれをあたふれば。
シテ詞
飲心よりいつしかに、やがて老をも忘水の。
ツレ
朝寐の床も起き憂からず。
シテツレ
夜の寐ざめもさびしからで。勇む心は真清水の。絶えずも老を養ふ故に。養老の滝とは申すなり。
ワキ
げにげに聞けばありがたや。さてさて今の薬の水。この滝川の内にても。とりわき在所のあるやらん。
シテ詞
御覧候へこの滝壺の。少し此方の岩間より。出でくる水の泉なり。
ワキ
さてはこれかと立ちより見れば。実に潔き山の井の。
シテ
底すみわたるさゞれ石の。巌となりて苔のむす。
ワキ
千代に八千代のためしまでも。
シテ
まのあたりなる薬の水。
ワキ
誠に老を養ふなり。
地歌
老をだに養はゞ。まして盛の人の身に。薬とならばいつまでも。御寿命も尽きまじき。泉ぞめでたかりける。
実にや玉水の。水上すめる御代ぞとて流の末の我らまで。豊にすめる。嬉しさよ豊にすめる嬉しさよ。
地クリ
実にや尋ねても蓬が島の遠き世に。今のためしも生薬。水また水はよも尽きじ。
シテサシ
夫れ行く川の流れは絶えずして。しかも本の水にはあらず。
地
流に浮ぶうたかたは。かつ消えかつ結んで。久しく澄める色とかや。
シテ
殊にげに是はためしも夏山の。
地
下行く水の薬となる。奇瑞を誰か。習ひ見し。
下歌
いざや水を結ばんいざいざ水を結ばん。
上歌
甕の竹葉は。甕の竹葉は。かげや緑を重ぬらん。その外籬の荻花は林葉の秋を。汲むなりや。晋の七賢が楽。
劉伯倫が翫。只この水に残れり。汲めや汲め御薬を。君の為に捧げん。曲水に浮ぶ鸚鵡は石にさはりて遅くとも。
手にまづ取りて。夜もすがら馴れて月を。汲まうよや馴れて月を汲まうよ。
ロンギ地
山路の奥の水にては何れの人か養ひし。
シテ
彭祖が菊の水。したゞる露の養に。仙徳を受けしより。七百歳を経る事も薬の水と聞くものを。
地
げにや薬と菊の水。その養の露のまに。
シテ
千年を経るや天地の。
地
ひらけし種の草木まで。
シテ
花咲き実なることはり。
地
その折々といひながら。
シテ
唯これ雨露のめぐみにて。
地
養ひ得ては。花の父母たる雨露の。翁も養はれて。此水に馴衣の。袖ひぢて結ぶ手の。影さへ見ゆる山の井の。
実にも薬と思ふより。老の姿も若水と見るこそ嬉しかりけり。
ワキ詞
実にありがたき薬の水。急ぎ帰りて我が君に。奏聞せんこそ嬉しけれ。
シテ詞
翁もかゝる御めぐみ広き御影を尊めば。
ワキ
勅使も重ねて感涙して。かゝる奇特に逢ふ事よと。
地歌
いひもあへねば不思議やな。いひもあへねば不思議やな。天より光かゞやきて。滝の響も声すみて。音楽聞え花降りぬ。
これ唯事と。思はれずこれ唯事と思はれず。
来序中入間
後シテ出端
ありがたや治まる御代の習とて。山河草木おだやかに。五日の風や十日の。天が下照る日の光。曇はあらじ玉水の。
薬の泉はよも尽きじ。あらありがたの奇瑞やな。
地
これとても誓は同じ法の水。尽せぬ御代を守るなる。
シテ
我はこの山山神の宮居。
地
又は楊柳観音菩薩。
シテ
神といひ。
地
仏といひ。
シテ
唯これ水波の隔にて。
地
衆生済度の方便の声。
シテ
峯の嵐や。谷の水音滔々と。
地
拍子を揃へて音楽の響。滝つ心を澄ましつゝ。諸天来去の。影向かな。
神舞
シテ
松蔭に。千代をうつせる。緑かな。
地
さもいさぎよき山の井の水。山の井の水山の井の。
シテ
水滔々として。波悠々たり。治まる御代の。君は船。
地
君は船。臣は水。水よく船を。浮べ浮べて。臣よく君をあふぐ御代とて幾久しさも尽せじや尽せじ。君に引かるゝ玉水の。上澄む時は。下も濁らぬ滝津の水の。浮き立つ波の。返すがえすも。よき御代なれや。よき御代なれや。万歳の道に帰りなん。万歳の道に帰りなん。
以上