能の詞章

ワキワキツレ (次第)
山より出づる北時雨 。山より出づる北時雨行方や定なかるらん。

ワキ詞
これは北国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候ふ程に。この度思ひ立ち都に上り候。

道行三人
冬立つや。旅の衣の朝まだき。旅の衣の朝まだき。雲も行きかふ・遠近{をちこち}の。山又山を越え過ぎて。紅葉に残るながめまで。花の都に着きにけり。花の都に着きにけり。

ワキ詞
急ぎ候ふ程に。これは早都千本のあたりにて有りげに候。暫く此あたりに休らはゞやと思ひ候。面白や頃は神無月十日余。木々の梢も冬枯れて。枝に残の紅葉の色。所々の有様までも。都の景色は一しほの。眺ことなる夕かな。あら笑止や。俄に時雨が降り来りて候。これに由有りげなる・宿{やどり}の候。立寄り時雨を晴らさばやと思ひ候。

シテ詞呼掛
なうなう御僧。何しに其宿へは立ち寄らせ給ひ候ふぞ。

ワキ詞

唯今の時雨を晴らさんために立ち寄りてこそ候へ。

シテ
それは時雨の・亭とてよしある所なり。其心をも知し召して立ち寄らせ給ふかと。思へばかやうに申すなり。

ワキ
実に実にこれなる額を見れば。時雨の亭と書かれたり。折柄面白うこそ候へ。これは如何なる人の建て置かれたる所にて候ふぞ。

シテ
これは藤原の定家の卿の建て置き給へる所なり。都の内とは申しながら。心すごく時雨ものあはれなればとて此亭を建て置き。時雨の頃の年々は。こゝにて歌をも詠じ給ひしとなり。古跡といひ折柄といひ。其心をも知し召して。逆縁の・法をも説き給ひて。彼御菩堤を御弔ひあれと。勧め参らせん其ために。これまで現れ来りたり。
※逆縁:通りすがりのちょつとした縁。
ワキ詞
さては藤原の定家の卿の建て置き給へる所かや。さてさて時雨をとゞむる宿の。歌はいづれの言の葉やらん。

シテ
いやいづれとも・定{さだめ}なき。時雨の頃の年々なれば。分きてそれとは申し難しさりながら。時雨時を知るといふ心を。・偽のなき世なりけり神無月。誰が誠よりしぐれそめけん。此言がきに私の家にてと書かれたれば。もし此歌をや申すべき。(この世は偽りばかりと思っていましたが、そうではなく神無月になると必ず時雨が降りますが、いったいだれの誠が天に通じたのでしょうか)

ワキ
実にあはれなる言の葉かな。さしも時雨はいつはりの。なき世に残る跡ながら。

シテ
人はあだなる・古事{ふるごと}を。語れば今も仮の世に。

ワキ
他生の縁は朽ちもせぬ。これぞ一樹の蔭の宿。※他生とは前世のこと。

シテ
一河の流を汲みてだに。

ワキ
心を知れと。

シテ
折りからに。

地歌
今降るも。宿は昔の時雨にて。宿は昔の時雨にて。心澄みにし其人の。あはれを知るも夢の世の。実に定なや定家の。軒端の夕時雨。古きに帰る涙かな。庭も・籬{まがき}もそれとなく。・荒{あれ}のみ増さる・叢{くさむら}の。露の宿も枯々に物すごき夕なりけりもの凄き夕なりけり。

シテ詞
今日は志す日にて候ふ程に。・墓所{むしよ}へ参り候ふ御参り候へかし。

ワキ詞
それこそ出家の望にて候へ。やがて参らうずるにて候。

シテ
なうなう是なる石塔御覧候へ。

ワキ
不思議やなこれなる石塔を見れば。星霜ふりたるに蔦葛はひまとひ形も見えず候。是は如何なる人のしるしにて候ふぞ。

シテ
これは式子内親王の御墓にて候。又此かづらをば・定家{ていか}葛と申し候。

ワキ
あら面白や定家葛とは。如何やうなる謂にて候ふぞ御物語り候へ。

シテ
式子内親王始めは賀茂の・斎の院{いつきのみや}に備はり給ひしが。程なく下り居させ給ひしを。定家の卿忍び忍びの御契浅らず。その・後{のち}式子内親王程なく空しくなり給ひしに。定家の執心葛となつて御墓にはひ纏ひ。互の苦み離れやらず。共に邪淫の妄執を。御経を読み弔ひ給はゞ。なほなほ語り参らせ候はん。

地クリ
忘れぬものを古の。心の奥の・信夫山。忍びて通ふ道芝の露の。・世語よしぞなき。

シテサシ
今は玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば。


忍ぶる事の弱るなる。心の秋の・花薄{はなずすき}。穂に出でそめし契とて又枯々の中となりて。

シテ
昔は物を。思はざりし。


後の心ぞ。はてしもなき。

クセ
あはれ知れ。霜より霜に朽ち果てて。世々に奮りにし山藍の。袖の涙の身の昔。憂き恋せじと御祓せし。賀茂の斎の院にしも。備はり給ふ身なれども。神や受けずもなりにけん。人の契の色に出でけるぞ悲しき。包むとすれどあだし世の。あだなる中の名は洩れて。よその聞えは大方の。空恐ろしき日の光。雲の・通路{かよひぢ}絶え果てゝ。乙女の姿とゞめ得ぬ。心ぞつらきもろともに。

シテ
上羽 実にや嘆くとも。恋ふとも逢はん道やなき。


君かづらきの嶺の雲と。詠じけん心まで。思へばかゝる執心の。定家葛と身はなりて。此御跡にいつとなく。離れもやらで蔦紅葉の。色こがれまとはり。・荊{おどろ}の髪もむすぼほれ。露霜に消えかへる妄執を助け給へや。
ロンギ地
古りにし事を聞くからに。今日も程なくくれはとり。怪しや御身誰やらん。

シテ
誰とても。亡き身の果は・浅茅生の。霜に朽ちにし名ばかりは。残りても猶よしぞなき。


よしや草葉の忍ぶとも。色には出でよ其名をも。

シテ
今は包まじ。


此上は。我こそ式子内親王。これまで見え来れども。誠の姿はかげろふの石に残す形だに。それとも見えず蔦葛苦みを助け給へといふかとみ見えて失せにけり。いふかと見えて失せにけり。

中入

ワキ、ワキツレ
夕も過ぐる月影に。夕も過ぐる月影に。松風吹きてもの凄き草の蔭なる露の身を。思ひの玉の数々に。弔ふ縁は有り難や。弔ふ縁は有り難や。

二人
後シテ 夢かとよ闇の。現の。宇津の山。月にもたどる。蔦の細道。昔は・松風蘿月{しようふうらげつ}に詞をかはし。翠帳紅閨に枕をならべ。


さまさまなりし情の末。

シテ
花も紅葉もちりちりに。


地 朝{あした}の雲。

シテ
夕の雨と。



古事も今の身も。夢も現も。幻も。共に無常の世となりて跡も残らず。何なかなかの草の蔭。さらば・葎{むぐら}の・宿{やど}ならで。外はつれなき定家かづら。これ見給へや御僧。

ワキ あら痛はしの御有様やなあら痛はしや。仏平等説如一味雨。随衆生性所受不同。

シテ
御覧ぜよ身は仇波の・起居{たちゐ}だに。亡き跡までも・苦{くるしみ}の。定家葛に身を閉ぢられて。かゝる苦隙なき所に。有難や。唯今読誦し給ふは薬草喩品よなう。

ワキ
中々なれや此妙典に。洩るゝ草木のあらざれば。執心のかづらをかけ離れて。仏道ならせ給ふべし。

シテ
あら有難や。

シテ詞
実にも実にも。これぞ妙なる法の教。

ワキ
普{あまね}き露の恵を受けて。

シテ
二つもなく。

ワキ
三つもなき。したゞり皆湿ひて。草木国土。悉皆成仏


一味の御法の雨のの機を得ぬれば。定家葛もかゝる涙も。ほろほろと解けひろごれば。よろよろと足弱車の火宅を。出でたる有難さよ。此報恩にいざさらば。有りし雲居の花の袖。昔を今に返すなる。其舞姫の・小忌衣}。

シテ
おもなの舞の。

地 有様やな。

(序ノ舞)

シテワキ
おもなの舞の。有様やな。


おもなや面はゆの。有様やな。

シテ
本{もと}より此身は。


月の顔ばせも。

シテ
曇りがちに。


桂の黛も。

シテ
落ちぶるゝ涙の。


露と消えてもつたなや蔦の葉の。・葛城の神姿。恥しやよしなや。夜の契の。夢の・中にと有りつる所に帰るは葛の葉の。元の如く。はひ・纏はるゝや定家葛。はひ纏はるゝや定家葛の。儚なくも形は・埋れて。失せにけり。
以上

■定家 謡