能における最高の難曲。
「能は老いにむかって成熟していく」と言われている。従って能の曲目の中でも、老女物は最高位に位置している。
その「老女物」のなかでも「関寺小町」は最高の難曲と言われている。

金春流では家元だけに許される曲です。すなわち実力者本位による演能は行えないことになっているのである。ただし、
下間少進だけが昭和30年10月1日に例外としてその実力を認められ演じている。このようにこの曲は能が大切にする域として、
能の最高位としての位置づけられていると言えます。
粗いものを粗く、固いものをひたすら固く演じることは容易かもしれないが、異質なものを内在させた美の表現は、高い芸域に至って
初めて可能な境地である。

老女物・・・『能・狂言事典』による・・・・。
能の美意識上,女を描くことと老いを表現することは重視される傾向があり,その両面を兼ねるところから高度な技量と芸位,
深い精神性
を要し,相応の年齢に達しないと演じられないとされる.
①卒塔婆小町(入門編としての位置づけ)
②鸚鵡小町
③姨捨
④檜垣
⑤関寺小町(芸を極めた者だけが許される秘曲である。)
③④⑤この3曲が「三老女」と呼ばれ、最高の秘曲である。

実は老女物もの位自由なものはないと言われています。何故なら、それを舞うのは高度な水準に達した者という前提だからである。
伝書や書付の記述は概ね簡略であり、演者の工夫と裁量にまかされている。従って『老女物』は案外個性的な演技が可能なものの、
反面能の限界を越える危険がないとはいえないのである。

何故能においては「年老いた」小町が必要であったのか?
小町という絶世の美女は何故か若い時よりも、年をとってから、しかも零落してからの方が大変魅力をもって捉えられていた。
小町が都の人達の噂・注目から消えていき、誰なのかわからなくなってしまう。その時の小町に出会ったならば、どういう事になって
いるのか?昔の「美」はどんな残り方をしているのか?
「老い」はかつて持っていた価値感に対して、残酷なものである。その残酷を超えて、それでも「美のなごり」は残っているはずである。
それが「老女物」を見る価値であるから、見る側の心理感も求められていると言える。
肉体を侵してくる時間と葛藤する苦しみの中に、「老いの気品」が現れて来るのではないか・・・・
現在の日本は「老人社会」になりつつある。どこかで現代と重なるのかもしれない・・と思いながらこの能に向かうのも意味のあること
です。

この曲の見どころ・・・
①華やかさ、奇麗さの一方の無情観。
②シテ「小野小町」の心情を見事に表現する「地謡」とその時のシテの表情。(クリ→サシ→クセ)
③子方の童舞から静かな「序の舞」
一切の虚飾を排し、童女の如く淡々と舞うその姿は、世阿弥のいう「さびさびとしたる中に、何とやらん感心のある…冷えたる曲」、
すなわち「心より出で来る能」であり、究極の幽玄美といえる。


囃子がはじまって・・・・
後見・囃子方が長袴、裃を着用しているのは、この曲が位の高い「老女物」であることから、敬意・尊重をはらっていることを表して
いる。
・作り物が運ばれる。この藁屋が小町の住まいである。場所は逢坂山の関寺の近くの小町の家である。

・囃子は《次第》
静かにドラマの始まりの雰囲気を醸し出しており、気分がだんだん高まっている。
笛の音は初秋の雰囲気を漂よわせている。
大小の鼓の底深い強いかけ声・音色が舞台をひきしめており、大変なドラマの始まりの緊張感を与えている。

ワキ・ワキツレ登場
・稚児を同行している。稚児が僧侶になるまでの間の指導の役割も僧侶は負っている。大事にしているのである。ここでは七夕に読む
歌の勉強のため、「昔歌詠みだったらしい?人」のところへいく場面である。
稚児の装束・・・緑の長絹、あざやかな大口、模様は金で縫いとられている。
沢山の縦僧等々華やかである。これは単独の華やかさではなく、七夕のはなやかさも含めた表現である。この美しさは萎れ枯れていく
小町と、吹き出ようとする蕾のような少年との対比、無情観を表している。
・寺の七夕の飾り付けも終わり夕方を待っている。
・地謡による地トリは再度心に向けて謡っているようで、丁寧な気分になる。
・4人の僧のうち1人だけ寸帽子、水衣、大口装束の違う(宝生 閑)のは「格調」の高い僧を表している。
・「道行」・・・謡が終わると老女の私宅へ着く。←能の簡潔さのひとつの表現であり、舞台運びをスムーズにしている。
No.2
シテ登場
・小町は僧に関係なく「老い」を嘆く。・・・花は~、柳は~、人は~・・・・
・允業天皇とその妃のことを持ち出し、夫が通ってくるのを待っているように、小町も妃と待つ女の末裔だと言っている。
・藁屋の周りには7枚の短冊が吊るされているが、これは七夕であることをあらわしている。(優雅)
・「あら来し方恋しや~」はこの曲の大きなテーマであり、今までを生きてきた過去を懐かしがっていることをあらわしている。
・ワキとのやりとりで心地よさやうれしさを感じながら、歌の起こりから語り始め、小町のウンチクの深さを示している。
(少年のふくよかな姿を見つめている。)
二歌・・・・・難波津・浅香山の歌は古今集以来の歌の手本となった。

地謡の見せ場です。
・「種は心」・・歌の原点は心にある。(歳月に関係なく人々は歌によつて心を伝えてきた。これからもそうであろう・・と言っている)。
・地謡の謡の中で小町の人生の栄枯盛衰が謡われている。小町もこれをかみしめている。否、小町が心に思っていることを地謡が表現
している。シテはこの中で色々な表情を見せることになる。←地謡の支え。
この地謡の歌の表現は暖かい音声で、ペーパーで表すより心があります。
小町の面が美しい。
表情のないような面がいかに多くの表情を貯めているか。その表情の様々を誘い出してくれるのが、「地謡」であるとも言える。
☆動かないシテの美しさ、面の美しさを地謡が助けている感じです。
・一人称で自分のことを語りながら(我を~)、シオリをした時に袖口からかすかに「紅」が見えている。艶やかな瞬間であ。
恋しの昔・・・・忍ばしの・・・昔のわが身(若かった日)が恋しい!!←小町の大テーマ。
初めての老いぞ悲しき・・・老いを感じたあの時がなつかしい。●言葉は美しいが、悲しい言葉が情を盛り上げている。

歌心がわいてきた小町。
・関寺の鐘の声~・・・・鐘の音にうながされる様に歌心がわいて来る小町がそこにある。
・逢坂の山~・・・・思う人と逢う坂である。掛詞として使われてきた。→夜なのだ暗くてみえないであろうが、ほのかに逢坂の山を
眺める。(是生滅法、飛花落葉、諸行無常という「無常」の事はわかっているが、かすかな歌への情が湧く)

短冊へ書き込む→この時何を書いているかは、想像にまかされている。人・逢坂・七夕・・・
☆稚児と小町・・・・・「老い」と「若さ」の対称としての位置付けである。(小町の心の中の若い時と今の老いでもある。)
・杖をついて前へ・・・・袖口の紅・・・小町の心の艶を見せている。稚児が関寺の七夕の祭りに誘っている。
・現在の小町の衰えにワキが涙を抑えている。昔の小町の噂を聞いていたのであろう・・・。
・華やかに・・かつ物哀しい感銘を与える。

舞の始まりです。
・少年が感謝を表わし酒を注ぐ。この時小町は少年から「若さ」ももらった様である。
・「きよう人こそ走り候へ・・・100歳の小町が「物狂い」となって舞を舞おうとすることを表現しているが、これは恥ずかしいこと
への言い訳である。
・少年の舞で「五節の舞」を見たことを思い出し、杖を持ちながらではあるが、小町の「序の舞」が始まる。

最初は苦しそうであるが、興に乗ったのか杖を置き舞おうとする。老いのため舞いの途中で休息をとる場面もある。「昔はこうでは
なかった・・・・」
・昔を思い出し、遠くを眺める型・・・・舞を舞える力が残っていた、自分のなかに「人を思う力」があったことを確認する。
そして我が身に残っている力で舞を舞い遂げることが、小町の心の中にまだ残っている小町・・・すなわち若さ・・・になれること
だと思っていたのかもしれない。しかし、また杖を手にする。心身の疲れを感じている。
・舞の区切りで「杖、扇」を持ち替える時、笛は小町の悲しみに寄り添う様に少し静かな弱い音になる。
心にしみる場面である。
舞えない舞の美しさである。これは不可能を可能にしようとする情熱を表しているとも言える。・・・・感動的で美しいと思わせる。

・やがて一夜の夢のようなひと時が過ぎ、現実に戻っていく。元の藁屋へ帰る。
約束事として当然僧達は消えていくが、私たちor小町には自分の目の前を華やかな名残が消えていくように感じられる。小町はここに
留まるしかない。
能の不思議な面白さと言える。
以上

能曲目鑑賞ポイント解説

関寺小町