■この能の作者と作品背景。
・原作者は不明。世阿弥の伝書によれば、先輩の亀阿弥『汐汲』がもとになっているといわれています。観阿弥も係わっていたようである。しかし、現在の構成に作ったのは「世阿弥」であると、言って良いでしょう。。
・「三番目物」の夢幻能である。
■「松風」の見どころ。・・・・段落が3つから構成されており、それぞれの場面が次へつなげる為の場面となっている。
"①第一の段落は、男と女の恋物語に入る前の静かな汐汲みの情景描写です。真之一声の荘重な出囃子にて二人の海女が登場します。
そもそも真之一声とは一般に脇能の前シテ・ツレが登場するときの囃子ごとであるが、荘重で品よく、しかも力強さという観点にたって、
脇能の荘重さとは少し違う、重苦しい二人の海女の苦悩の深さという雰囲気、汐汲みという重労働をよく表現しています。
脇能以外で真之一声でシテ・ツレが登場するのは喜多流ではこの一曲、『松風』だけです。"
②第二は塩屋でのワキとの問答から始まります。シーンと静まり返った音のない舞台で、しっとりとしたワキとの問答。第一の段落とは
明らかに趣が変わり、場面の転換がなされています。
③第三は形見を纏い恋慕の思いに狂喜して、中ノ舞から心が激して破ノ舞へと進む。
★謡(かけ合い)とメロディー(独特の謡まわし)に特徴があり「聞いて楽しい」、わかりやすくハッとする「型」が随所にちりばめられた
「見て楽しい」曲である。
・慕われ続ける行平は平城天皇の孫であり、在原業平(ちはやぶる神代~)の兄である。「光源氏」のモデルともいわれている。
・実際の行平は76才まで生きていることから、能の作者が新たに作り出したものである。
※能では、「単なる舞台装置」として作り物を出すことはない。それなりの意味がある。
《前場》
●作り物・・・・・松の立ち木。
・この作り物の位置づけは、行平を慕う松風、村雨の「旧跡」という設定であるが、「待つ(松)聞かば~」が行平の歌であることから、
一方では、行平の象徴である。
■ワキ登場。
・シテ方が観世流の場合は、ワキ登場とともに名のりをおこなうが、今回は「喜多流」のため「須磨や明石に~」と謡をしてから名のり
となる。
■前シテ、ツレ登場。
・真の一声(静で気品の高い、ゆっくりした曲。笛・小鼓・大鼓・太鼓で囃す。)・・・大変荘重な囃子である。
・汐汲車の作り物を出す際に「登場音楽」は関係ないが、この曲ではそれを利用して出している。実際の汐汲車は、もっと大きく汚いが、
ここでは「美しいもの」として表現されています。
※二人一緒に愛される設定であるが、能ではあくまでもシテ一人に集約して見せている。(汐汲、恋心等)
※ツレはシテとの違いを出すため、装束・面も控えめとし、謡も高め・早目となっている。前場では「分身」として、後場では別の役目
として位置づけられている。
橋掛りで向かい合い連吟となります。真之一声のため、ゆっくり重々しく始まりますから、離れた状態でなおかつ声を揃えて謡うことは
とても難しいと言えます。騒がしくなく、かといってひ弱な声でもダメです。客に適切に伝わらなくてはいけません。
★この他にもシテ・ツレの連吟や掛け合いが多く、「波長を合わせる」ことが重要なポイントになります。
男と女の恋物語に入る前の静かな汐汲みの情景描写であるが、月は寒々とした情景、夜の海の浪の音は寂しさ、恐ろしさを、それぞれ
表している。その雰囲気が二人の海女の次からの物語をどこかで暗示させるものとなっている。
※秋の寒い夜を十分表現した後で、「汐を汲む」状況を表現する。
本来汐汲みは重労働であるが、能では高貴な人が作法しているように見せている。→美しい表現へと・・・
・寄せては帰るかたをなみ。芦辺の田鶴こそは立ちさわげ
四方の嵐も音添へて 夜寒なにと過さん。更け行く月こそさやかなれ。
「注★先聞後見」
☆顔の角度を少し変えるだけで、情景が見えてくる。謡と能面が作り出す能ならではの光景である。
★先聞後見とは・・・世阿弥の言葉
先に音が聞こえ情景が思い描かれ、それから少し時間をおいて「見る」。決してすぐ動作を起こしてはならない。
芦辺の田鶴こそは立ちさわげ・・・・シテが鶴と聞いて鶴を見る型を心で思う。そのシテの動きを見て私たちがイメージする。
芦辺の~ではわかっているが、ここで動かず、「タメ」を作る。
★「動十分心 動七分心」 とは・・・世阿弥の言葉
気持ちは十分あるのだけれど、それをストレートに表現しない。70%で表現して30%は残すが、それが余韻を作ることになる。
これはあまりリアルになり過ぎてもいけない。型だけでもいけない。さりとて美しくなければいけない。
No.2
《 シテと地謡のカケ合い 》
・運ぶは遠き陸奥のその名や千賀の塩竈~
○物語の高揚感を演出する役割である。音楽的面白さだけを追求。
・松島や小島の海人の月にだに影を汲むこそ心あれ影を汲むこそ心あれ。
汐汲みで有名な地名を謡いあげて行き、灘の部分で高温を聞かせた謡(灘グリ)となる。
★灘グリ
高い音で声を張り上げて謡う部分である。本来謡は8拍のリズムで行うが、この歌は少し違う・・・・
ナ-ァだの---しィお--くむ
※宝生・金春・金剛では「灘返し」となる。
▼ひとつの区切りとなる。これ以降は場面が変わる。
・「影は二つ満つ汐の夜の車に月を載せて。憂しともおもはぬ汐路かなや。」・・・ある意味での留め拍子である。
■場面は「塩屋」へ。・・・恋物語の始まりです。
・須磨に3年滞在したあと都へ戻り、すぐに亡くなったことを謡う。実際とは異なるが、恋心が募っていく謡の部分であり、、
これが能独特の設定である。
一夜の宿を乞う僧に、きっぱりと断る村雨。旅人が出家の身であると知ると、心が変わり宿を許す姉の松風。そこには、この僧なら
自分たちを弔ってくれるかもしれない、常に救いを求めている松風の気持ちが隠されています。
●クセ
・「あはれ古を~」
低い音からじっくり謡う部分である。クセにおける具体的な型はないが、「松風」て゜は変わっている。
形見を手にとって眺めたり、捨てようとしたり、捨てられずにかき抱いてしまったり・・・・・そして「シオって」泣いてしまう。
かき抱く部分より松風の気持ちが高揚してくる。
《 物着の持つ意味 》・・・真の物着といい、舞台の中央で行う。
高揚の結果、形見を実際に身につけてしまう。(この間は笛と鼓が静かに演奏している。)
今までの流れに対して、松風の人格が変わり、高揚していくという経緯を見せる意図がある。※何も無い時間であるが、後半に向けて
沸々と気持ちが高まって、「待つ身」の私達も「どのような変化があるのか?」・・・・とある種の変化を待つと言うのも一方の楽しみ
なはずである。
そして・・・・舞台の様子が一変する。
《後場》
《 シテとツレのカケ合い 》
形見を実際に身に着けた段階で「常軌を逸している」と言わざるを得ない状態となっている。
カケ合いは前述のとおり「高揚」を目的としている。ここではツレが止めに入ったり、同調したり・・・・理性的な村雨と恋慕の情が
まさり、物狂いとなる松風との違いがくっきりと現れます。そして・・・・カケ合いが短くなり、「たち別れ」へと進行していく。
☆村雨の役割
松風の気持ちにのみ「焦点」を合わせて曲が作られているので、村雨は何もしないように見えるが・・・・
実は松風の分身ではないか?とふと思う時がある。
あるときは「止めにはいる」理性部分であり、最後には感情の部分では同調してしまう・・・・
《 中の舞 》
舞では意味のある所作はありません。しかし、この曲では今までのやりとりが下地となって・・・・動作において①くるくるっと回ったり
②扇を開いたり③足拍子をふんだり・・・美しい型の連続が「意味がある」ように見えてくるから不思議である。
《 破の舞 》
中の舞に比べてスピード感がある。この舞では恋の激しさを表現している。
※この曲では舞にあるまじき事が行われている。それは・・・松の周りをぐるっとまわってしまう型であり、かなり変わった型である。
他に「熊野」
◇イロエ掛 <舞-働き事>
静かに舞台上を一回りする動作、舞踏的意味合いが濃く、舞台に彩りを添える。
《 最後に 》
身分を越えた最下層の女たちが、中納言の職にある行平との交わりと喜びはその後の姉妹の心に重くのしかかります。
男一人に二人の女性、それも姉妹という複雑な関係がこの曲の面白さでもあると思います。
理性部分のある村雨、情熱的な姉。この二人の性格の違いがこの曲を最後まで支えている。
以上
❑松風