能の詞章

シテツレ三人次第
其名も高き富士の嶺の。名も高き富士の嶺の。御狩にいざや出でうよ。

十郎詞
是は曽我の十郎祐成にて候。偖も我が君東八個国の諸侍を集め。富士の巻狩をさせられ候ふ間。我等兄弟も人なみにまかりいで。唯今富士の裾野へと急ぎ候。

サシ四人
今日出でていつ帰るべき故郷と。思へば猶もいとどしく。

上歌
名残を残す我が宿の。名残を残す我が宿の。垣根の雪は卯の花の。咲き散る花の名残ぞと。我が足柄や遠かりし。富士の裾野に着きにけり。/\。

十郎詞
急ぎ候ふ程に。これははや富士の裾野にて候。いかに時致。然るべき処に幕を御打たせ候へ。

シテ詞
畏つて候。

十郎
いかに時致。今に始めぬ御事なれども。我が君の御威光のめでたさは候。打ちならべたる幕の内。目を驚かしたる有様にて候。かほどに多き人の中に。我等兄弟が幕の内程物さびたるは候ふまじ。

シテ
さん候今に始めぬ君の御威光にて候。偖かのあらましは候。

十郎
あらましとは何事にて候ふぞ。

シテ
あら御情なや。我等は片時も忘るゝ事はなく候。彼の祐経が事候ふよ。

十郎
げにげに某も忘るゝ事はなく候。偖いつをいつまでながらへ候ふべき。ともかくも然るべきやうに御定め候へ。

シテ
御諚の如く。
いつをいつとか定め候ふべき。今夜夜討がけに彼の者を討たうずるにて候。

十郎
それが然るべう候。さらばそれに御定め候へ。や。思ひ出したる事の候。我等故郷を出でし時。母にかくとも申さず候ふ程に。
御嘆あるべき事。これのみ心にかゝり候ふ間。鬼王か団三郎か。兄弟に一人形見の物を持たせ。故郷に帰さうずるにて候。

シテ
げにこれは尤にて候さりながら。一人帰れと申し候はゞ。定めてとかく申し候ふべし。たゞ二人ともに御かへしあれかしと存じ候。

十郎
尤にて候。さらば二人ともに此方へ参れと御申し候へ。

シテ
畏つて候。いかに団三郎。鬼王此方へ参り候へ。

団三郎
畏つて候。

シテ
団三郎兄弟これへ参りて候。

十郎
いかに団三郎。鬼王もたしかに聞け。汝兄弟に申すべき事を承引すべきか。又承引すまじきか真直に申し候へ。

団三郎
これは今めかしき御諚にて候。何事にても候へ御意を背く事はあるまじく候。

十郎
あらうれしや。さては承引すべきか。

団三郎
畏つて候。何事も御諚をば背き申すまじく候。

十郎
此上は委しく語り候ふべし。さても我等が親の敵のこと。彼の祐経を今夜夜討がけに討つべきなり。兄弟空しくなるならば。故郷の母嘆き給はん事。あまりに痛はしく候ふ程に。形見の品々を持ちて。二人ながら故郷へかへり候へ。

団三郎
これは思もよらぬ御諚にて候ふものかな。御意も御意にこそより候へ。此年月奉公申し候ふも。此御大事に真先かけて討死仕るべき為にてこそ候へ。何と御諚候ふとも。此儀においては罷り帰るまじく候。鬼王さやうにてはなきか。

鬼王
なかなかの事尤にて候。まかり帰ることはあるまじく候。

十郎
何と帰るまじいと申すか。

団三郎
ふつつとまかり帰るまじく候。

十郎
これは不思議なる事を申すものかな。さてこそ以前に詞を固めて候ふに。さてはふつつと帰るまじきか。

団三郎
さん候。

十郎
汝は不思議なる者にて候。なう五郎殿あれを御帰し候へ。

シテ
畏つて候。やあ何とてまかり帰るまじとは申すぞ。さやうに申さうずると思し召してこそ。始より詞を固めて仰せられ候ふに。
何とて帰るまじいとは申すぞ。しかと帰るまじきか。

鬼王
まづ畏つたると御申し候へ。

団三郎
畏つて候。

シテ
しかと帰らうずるか。

団三郎
まかり帰らうずるにて候。

シテ
あうそれにてこそ候へ。まかり帰らうずると申し候。

十郎
何と帰らうずると申すか。

団三郎
さん候。いかに鬼王に申し候。

鬼王
何事にて候ふぞ。

団三郎
さて何と仕り候ふべき。まかり帰れば本意に非ず。又帰らねば御意に背く。とかく進退こゝに窮つて候。

鬼王
仰の如くまかり帰れば本意に非ず。又帰らねば御意に背く。我等も是非を弁へず候。但し急度案じ出したる事の候。
いづくにても命を捨つるこそ肝要にて候へ。恐れながら団三郎殿とこれにて刺し違へ候ふべし。

団三郎
げにげにいづくにても命をすつるこそ肝要なれ。いざさらば刺しちがへう。

鬼王
尤にて候ふ。

シテ
あゝ暫く。これは何としたることを仕り候ふぞ。

十郎
やあ兄弟の者帰すまじきぞ帰すまじきぞ。まづまづ心を静めて聞き候へ。今夜此処にて祐経を討ち。我等兄弟空しくならば。
さて故郷にまします母には誰か斯くと申すべきぞ。敬ふ者に従ふは。君臣の礼と申すなり。之を聞かずは生々世々。
永き世までの勘当と。


かきくどき宣へば。かきくどき宣へば。鬼王団三郎。さらば形見を賜はらんと。いふ声の下よりも。不覚の涙せきあへず。

地クリ 夫
れ人の形見をおくりし例には。彼の唐土の樊が。母の衣を着替へしは。永き世までの例かや。

十郎サシ
今当代の弓取の。母衣とはこれを名づけたり。


然れば我等が賎しき身を。譬ふべきにはあらねども。恩愛の契の。あはれさは。我等を隔てぬ習なり。

クセ
さる程に兄弟。文こまごまと書きをさめ。これは祐成が。いまはの時に書く文の。文字消えて薄くとも。形見に御覧候へ。
皆人の形見には。手跡に勝る物あらじ。水茎の跡をば心にかけて弔ひ給へ。老少不定と聞く時は若き命も頼まれず老いたるも残る世の習。
飛花落葉の理と思し召されよ。其時時致も。膚の守を取り出し。これは時致が。形見に御覧候へ。形見は人のなき跡の。
思の種と申せども。せめて慰む習なれば。時致は母上に添ひ申したると思し召せ。今までは其主を。守仏の観世音。
此世の縁なくと来世をば助け給へや。

十郎
既に此日も入相の。


鐘もはや声々に。諸行無常と告げ渡る。さらばよ急げさらばよ急げ使。涙を。文に巻きこめて其のまゝやる。
文の干ぬ間にと。詠ぜし人の心まで。今更思ひ白雲の。かゝるや富士の裾野より。
曽我に帰れば兄弟すごすごと跡を見送りて泣きて留まる。あはれさよ泣きて留まるあはれさよ。

早鼓。中入間。

後ツレ一セイ
寄せかけて。打つ白波の音たかく。ときを作つて騒ぎけり。

早鼓。

後シテ
あらおびたゝしの軍兵やな。


我等兄弟うたんとて。多くの勢は騒ぎあひて。こゝを先途と見えたるぞや。十郎殿十郎殿。何とて御返事はなきぞ十郎殿。
宵に新田の四郎と戦ひ給ひしが。さては早討たれ給ひたるよな。口惜しや死なば骸を一所とこそ思ひしに。物思ふ春の花ざかり。
散りぢりになつてこゝかしこに。骸をさらさん無念やな。

地歌
味方の勢はこれを見て。味方の勢はこれを見て。打物の。鍔元くつろげ時致を目がけてかゝりけり。

シテ
あら物々しやおのれ等よ。


あら物々しやおのれらよ。先に手並みは。知るらんものをと太刀取りなほし。立つたるけしき誉めぬ人こそなかりけれ。
かゝりける所に。かゝりける所に。御内方の古屋五郎。樊が。怒りをなし張良が秘術を尽しつつ。
五郎が面に。切つてかゝる。時致も。古屋五郎が抜いたる太刀の。鎬を削り。しばしが程は戦ひしが。
何とか切りけん古屋五郎は二つになつてぞ見えたりける。かゝりける処にかゝりける処に。
御所の五郎丸御前に入れたてかなはじものをと。肌には鎧の。袖を解き。草摺軽げに。ざつくと投げかけ上には薄衣引きかづき。
唐戸の脇にぞ待ちかけたる。

カケリ

シテ
今は時致も運槻弓の。


今は時致も運槻弓の。力も落ちて。まことの女ぞと油断して通るを。やり過し押しならべむんずと組めば。

シテ
おのれは何者ぞ。

ツレ
御所の五郎丸。


あらものあらものしとわだがみつかんで。えいやえいやと組みころんで。時致上になりける所を。下よりえいやと又押し返し。
其時大勢おり重なつて。千筋の縄を。かけまくも。かたじけなくも。君の御前に。追つ立て行くこそめでたけれ。

■夜討曽我 謡