観阿弥清次(1333〜1384)
大和の国山田の猿楽師の家に生まれた。写実的な演技と台詞の面白さに中心をおき、劇的な展開を身上とした大和の猿楽に、彼は曲舞などの並行芸能を導入して、歌舞の要素をも合わせ持つ新しい芸能を創始し、興福寺などの儀式に参勤する結城座(観世座)の座長として京都へ進出、将軍足利義満に認められ、猿楽界における地位を確かなものとした。
彼の芸能に対する考えの大筋は、その子世阿弥によって「風姿花伝」としてまとめられた。

《代表曲》
・「卒塔婆小町」、「自然居士」、「通小町」


世阿弥元清(1363〜1443?)
観世座の二代目太夫。観阿弥清次の子。幼名を鬼夜叉、また藤若といい、のち左衛門太夫元清と称した。応安七年(1374)12歳の時、今熊野の猿楽能に観阿弥(父)とともに出演して、当時18歳の将軍足利義満に優れた素質と美貌を認められた。
現行曲のおよそ三分の一近くは世阿弥作、または改作によると言われている。広い古典的教養を自由に駆使し、先行の諸芸能も巧みに統合し、数々の名作も残した。
また、「風姿花伝」「花鏡」をはじめ、「至花道」「拾玉得花」や、芸談「猿楽談義」など数多くの能芸論を残している。
永享元年(1429)、義教が将軍となるに及んで仙洞御所などでの演能の機会を奪われ、嫡男元雅に先立たれるなど、晩年は佐渡へ配流されるなど不遇であった。


《代表曲》
・「高砂」、「清経」、「敦盛」
「忠度」、「江口」

観世十郎元雅(?〜1432)
世阿弥の嫡男。世阿弥が「子ながらも類なき達人」「道の奥義を極め尽くす」と評したほどの技量の持ち主であったが、永享4年(1432)に30代前半で没す。

《代表曲》
・「隅田川」、「盛久」、「弱法師」他。ほとんどが現在能で、世阿弥風の幽玄な能から脱皮しようとする意図が認められる。元雅の遺子観世十郎である。


金春禅竹(1405〜1470?)
世阿弥の女婿。本名は氏信。奈良を中心に河内・近江・丹波などで活躍し、金春座発展の基礎を築いた。
歌道や仏教的世界観にもとづいて能芸の理論化・組織化をはかり、独自の論を生んだ。

《代表曲》
・「芭蕉」、「定家」、「小塩」、「雨月」「楊貴妃」など。


観世小次郎信光(1450〜1516)
音阿弥(おんあみ)元重の七男。観世座の大鼓方。兄である四世観世太夫政盛の死後、その子の之重(祐賢)、さらに之重早世後は、遺子元広(道見)と、いずれも若年の観世太夫を補佐して観世座の危機を救った。
信光作品の特色としては、現在能が多く、多くの登場人物や作り物で華やかな場面を作ること、「船弁慶」「紅葉狩」のように、ワキを活躍させ、前場でシテに舞わせることによって、動きの多い場面を確保すること、などが指摘される。
見た目の華やかな、わかりやすい能が多いのは、若年の太夫を支え、いかに大衆の支持を得て一座の安定を図るかに腐心した結果とみることができよう。しかし、一方では「遊行柳」のような詩情あふれる夢幻能もあり、作者としての能才ぶりがうかがわれる。

《代表曲》
・「玉井」、「胡蝶」、「船弁慶」、「紅葉狩」、「吉野天人」、「遊行柳」など。


金春禅鳳(1454〜1530?)
禅竹の孫。本名は元安。文亀年間(1501〜1504)奈良より京都へ進出し、数々の演能を展開し、金春座を発展させた。
著書に「毛端私珍抄」、芸談に「禅鳳雑談」がある。金春がかりの説明や演技上の具体的記事など能楽資料としての価値がある。

《代表曲》
・「嵐山」、「生田敦盛」、「一角仙人」、「初雪」など構想や演出形式に工夫のある軽い能を作った。


観世弥次郎長俊(1488〜1541)
観世小次郎信光の長男。若年の七世観世太夫元忠(宗節)を助け、指導して、時には太夫の名代としてシテを務めたという。
煌びやかな扮装の神などを次々と登場させて、ショー的な効果をねらったり、派手な切り組や手の込んだ作り物でスペクタクル性を持たせたりするのが長俊の特色で、父信光の作風を継承している。
シテ中心の方法に対し、役のウエイトを多人数に配分し、アイが活躍したり、ワキやツレの見せ場を並列的に展開させるという傾向もある。

《代表曲》
・「輪蔵」、「江島」、「大社」25曲。


宮増(1488〜1541)
その正体はほとんど明らかでなく、「謎の作者」と言われている。その作風は、面白味を重視した演劇性の強い作品が多い。室町後期にかけ、宮増姓を名乗る「宮増グループ」と呼ぶべき大和猿楽系の能役者群が活動しており、近年の研究では能作者「宮増」はその棟梁を務めた人物、あるいはグループに属した能作者たちの総称であるとも考えられている。その作風は、僻遠の地を舞台にした人情的な現在能が多い。

《代表曲》
・「調伏曽我」「小袖曽我」「鞍馬天狗」「烏帽子折」「大江山」「氷室」など。
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囃子方は