この曲の魅力は・・・・・

女性の激しい嫉妬心という、ある意味では、大変分かりやすい主題の作品ですが、主人公の女性が、大変高貴な身分の女性であるという点が、この能に、何とも言えない奥行きを与えていると考えられます。
光源氏の正妻、葵上に対する、六条御息所(光源氏にとって年上の女でした)の心の葛藤は、賀茂の祭の折の「車争い」(たまたま、葵上の乗った車と衝突し、葵上の従者達に押し返されるという屈辱を、六条御息所が負った事件)をきっかけに表面化し、六条御息所の怨霊が、嫉妬の相手である葵上に取り憑くようになったといいます。
最後のシーンも六条御息所が成仏して鬼の姿がすーっと元の美しい御息所の姿に変わる、戻る、というような所も、やはり悲しみがまだ残ってるのか、全部吹っ切れて素直な清らかな心に戻ったのか、やっぱり嫉妬の気持ちがどこかにあったり、苦しみだけが残ったり、というのがどこかにあるのか…それぞれの人がどう想像するかというのが、捉え方によって色々思えるのが能の面白さだと思います。


《前場》

基本的な説明。
葵上は「出し小袖」によって表現されているが(病床にあることを表している。)、これは舞台上に登場する人物を限定することによって主人公である六条御息所の心にスポットをあてていく手法であるといえます。
※六条御息所の性格を確認しておく必要があります。
かつては華やかな東宮の妃だったのに、哀れな姿を人々にさらしてしまった・・・という傷ついた誇りが物語りの大きな背景となっている。
・プライドが高い。とても愛しているのであるが、嫉妬していると思われたくない・・・・・というような気がする。面の表情にも表れている。

前シテ登場・・・・

・梓の巫女の音にひかれて六条御息所が現れます。どことなく光源氏の姿を求めているようでもある・・・・・
・装束は「唐織」(今回使用のものは、安土桃山時代のものです。)で裾をたくし上げているのは貴婦人の外出をあらわしている。また模様の中に扇の絵(檜扇という)が入っていることも「高貴」を表している。
内側はウロコ箔のものであり、蛇を連想させる。
面(おもて)といい、すべてこの世の物ではない気配、ただならぬ思いが内に秘められている雰囲気がある。
・橋掛かりから舞台へ・・・・・心理の表現。恨みの気持ちをぶっけたい!
それ娑婆電光の堺には~・・・・・・電光のように短く儚い人生のたとえを謡っている。
短い人生だからこそ人を恨んだり、悲しんだりしたくはない。平穏に過ぎ去ってくれれば良いのだけれど、光源氏との恋愛を通して自分の魂が不安定になり、生霊となって現れざるを得ないコントロールできない身の上を嘆き、恥て・・・悲しんでいる→シオリで表現。

謡、お囃子によって次第に感情が高まっていく様を演出している。
だんだん感情をコントロール出来なくなった結果→六条御息所の霊は、突然、「あら恨めしや。今は打たでは、かない候まじ」と、感情を押さえ切れなくなり、自ら立ち、葵上を打ち据える行動となる。(感情の爆発につながって行く)。

▲枕の段へ・・・・まとまった謡いどころや舞いどころ、囃しどころへ・・・・
この時点での舞いは足拍子を踏んだり、葵上をにらみつけたりという所作で「激しい感情の発露」を表している。しかし、一方では「この気持ちを皆には見られたくない!」という気持ちも心の中にはある。

押さえきれない衝動の最終的な行動・・・・・扇を葵上にたいして投げつける。

▲物着・・・・
従者が、横川小聖(ワキ)を呼びに行っている間に、シテは、後見座で、面を般若(はんにゃ)に替え、髪を乱して、後シテの扮装に変わります。悪霊の本性を現した体です。

《後場》

・生きながらにして鬼となった事を表している。(でもなりたくしてなった鬼ではないから・・・・・)
太鼓が打出し、「祈リ」と呼ばれる音楽となり、悪霊と聖の、闘争場面となります。後半の見どころです。
・鬼と人という矛盾しあう演技をする難しさ。・・・・荒々しくてはいけない。しかし鬼気迫るものででなければいけない。
世阿弥の伝書「二曲三体人形図」・・・・・・・形鬼心人(形は鬼であっても、心は人でなければならない。)

結局、祈りの力に負け、悪霊は、「この後は、決して参りますまい」と敗北を認め、最後は成仏し、心を和らげて終曲となります。

能曲目鑑賞ポイント解説

葵上