原作者は世阿弥の長男である観世十郎基雅である。
隅田川・・・・・・ここでは現代とは違った東の果てという設定である。
人買い・・・・当時は生活のため頻繁に行われており、特に都の子供は教養が高いので、対象にされた。


シテ(梅若丸の母)の登場。橋掛かりにて・・・
既に船頭(渡守)、商人がいる。装束、小刀、扇・・・船頭とは言え堂々とした姿です。身分の位もありますが、曲としての位からの位置づけです。
一声のお囃子にのってシテが「狂女」として登場する。子供を失ったのですから、「狂う」というのは冷静さを欠き、思い乱れている様であるが、違った側面もあります。それは芸能者の一面もあるということです。
※昔は人を探す場合、わざと目立つ格好をし、芸能を演じながら、神社、寺、町中などに出て人を集め、その人の中に探そうとする場合が多かったのです。
狂女が右手に持っている笹が“狂い笹”と呼ばれ
、“物狂い”の状態にあることを暗示しています。

装束の水衣には「紅」は入っておらず、中年の女性を表している。
人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。~は有名な和歌であり、子供を捜し求める母の気持ちを表している。
※実際問題として、この女性はどこに行って良いのか迷っているのが現実です。

橋掛かりでの動作は隅田川に着くまでの旅を表現している。

シテ本舞台へ・・
カケリ(翔り)と呼ばれる舞で一回りするが、テンボが早くなったり、遅くなったり、ある時は足拍子をしたりするが、これはあちこち探しまわっている事を表しているとともに、心の乱れだけでなく、心の高まりをも表現している。

カケリ(翔り)とは?
武将の霊や物狂いなどのシテが精神の昂揚によってはげしく動きまわる動作。大・小鼓に笛が加わる

ワキが嫌味ともとれる意地悪な問答「面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ」を仕掛けます。この謡は興味本位で残酷に聞こえますが、「狂女」は反面芸能者でもある訳ですから、このように言われても・・・・仕方がありません。この仕掛けが次の展開を引き出すためには必要なんです。

狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、切り返していく。このことで渡守はこの女性は風流があり、教養もある女性であることを認識し、親身になって舟に乗せる。
※但し、この曲では「作り物」としての船はありません。

対岸の柳の根元で人が集まっての大念仏のなか・・・渡守は着くまでの間時間があるので、その念仏に関わりあるある哀れな子供の話を聞かせる。
さても去年三月十五目~の語りはワキ方が非常に大事にしている部分である。この部分ではワキに梅若丸がのりうつっているようにも見えます。

「我が子だ!」・・・・

出身地、父親の名前、そして・・・本人の名前・・・・・「ひょっとして・・・」と思う。そしてさらにひとつづつ確認をする。そしてそれこそわが子であると狂女は気付く。
※この時動かないのは、内面に秘めている表現である。

やがて船は対岸へ・・・・

渡守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡守にそれは甲斐のないことであると諭される。母はあまりの悲しさに悲嘆にくれるが、母の弔いこそが子供の供養になると渡守に言われ・・・・
やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。
やがて子方の登場である・・・・・わが子が近づいてきて手を交わそうとするが・・・それは・・・塚の上の茫々とした草・・・・母の幻であった・・・・
※子方は黒頭で登場するが、これは幽霊であることを意味している。

子方登場について。
当時子方の扱いについては親子で対立があったようである。原作者である基雅は「登場させるべき」と主張するがも世阿弥は「母の見た幻影」であるとの立場をとり、「登場そせない」という観点であった。
しかし、世阿弥が「問答の前にどちらでも良いからやってみよう!それから考えれば良い」と言ったことから、現在のようになってしまった。

能曲目鑑賞ポイント解説

隅田川