能の詞章

■大原御幸 謡
官人詞
「これは後白河院に仕へ奉る臣下なり。扨も此度先帝二位殿を始め奉り。平家の一門長門の国早鞆の沖にして。ことごとく果て給ひて候。女院も御身を投げさせ給ひ候ふを取り上げ奉り。かひなき御命たすかりおはしまし候。三河の守範頼九郎太夫の判官義経兄弟供奉し申し。三種の神宝事故なく都に納まり給ひ候。さるほどに女院は都にうつらせ給ふべかりしを。先帝安徳天皇の御菩提。ならびに二位殿の御跡御弔のため。大原の寂光院に浮世をいとひ御座候ふを。法皇御幸をなされ。御訪あるべきとの勅諚にて候ふ間。御幸の山路をも申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。大原へ御幸あるべきなれば。行幸の道をもつくりその清を仕り候へ。

シテサシ
山里はもののさびしき事こそあれ。世の憂きよりは中々に。

シテ、内侍、局三人
住みよかりける柴の枢。都の方の音信は。間遠に結へる笆垣や憂き節繁き竹柱。立居につけて物思へど。人目なきこそ安かりけれ。

下歌
折々に心なけれど訪ふものは。

上歌
賎が妻木の斧の音。賎が妻木の斧の音。梢の嵐猿の声。これらの音ならでは。正木のかづら青つゞら来る人稀になりはてゝ。草顔淵が巷に。繁き思の行方とて。雨原憲が枢とも湿ふ袖の。涙かなうるほふ袖の涙かな。

シテ詞
いかに大納言の局。後の山に上り樒を摘み候ふべし。

局詞
わらはも御供申し。妻木蕨を折り供御にそなへ申し候ふべし。

シテ
譬へは便なきことなれども。悉達太子は浄飯王の都を出で。檀特山の嶮しき道を凌ぎ。菜摘み水汲み薪。


とりどり様々に難行し仙人に仕へさせ給ひて。終に成道なるとかや。我も仏の為なれば。御花筐取りどりなほ山深く入り給ふなほ山深く入り給ふ。

中入間

ワキ、ワキツレ一セイ
九重の花の名残を尋ねてや。青葉を慕ふ。山路かな。

次第
分けゆく露もふかみ草。分けゆく露もふかみ草。大原の御幸急がん。

ワキ詞
行幸をはやめ申し候ふ間。大原に入御候。かくて大原に行幸なつて。寂光院の有様を見わたせば。露むすぶ庭の夏草しげりあひて。青柳糸を乱しつゝ。池の浮草波にゆられて。錦を曝すかと疑はる。岸の山吹咲き乱れ。八重立つ雲の絶間より。山時鳥の一声も。君の御幸を。待ち顔なり。

法皇
法皇池の汀を叡覧あつて。池水に。汀の桜ちりしきて。波の花こそ。盛なりけり。

地歌
旧りにける。岩のひまより落ちくる。岩のひまより落ちくる。水の音さへよしありて。緑蘿の垣翠黛の山。絵にかくとも。筆にも及びがたし。一宇の御堂あり。甍破れては霧不断の香を焼き。落ちては月もまた。常住の灯をかゝぐとはかゝる所かものすごやかゝる所かものすごや。

ワキ詞
これなるこそ女院の御庵室にてありげに候。軒には蔦朝顔はひかゝり。深く鎖せり。あら物すごの気色やな。


いかにこの庵室の内へ案内申し候。

内侍詞
誰にてわたり候ふぞ。

ワキ
これは万里の小路の中納言にて候。

内侍
それはさて人目まれなる山中へは。何とて御わたり候ふぞ。

ワキ
さん候女院の御住居御訪のために。法皇これまで御幸にて候。

内侍
女院は上の山へ花つみに御いでにて。今は御留守にて候。

ワキ
御幸のよし申して候へば。女院は上の山へ花つみに御いでにて。今は御留守のよし候。暫くこの処に御座をなされ。御かへりを御待あらうずるにて候。

法皇
やあいかにあの尼前。汝はいかなる者ぞ。

内侍
げにげに御見忘は御ことわり。これは信西が娘。阿波の内侍がなれる果にてさぶらふ。かくあさましき姿ながら。明日をも知らぬこの身なれば。恨とは更に思はずさぶらふ。

法皇詞
女院はいづくに御渡り候ふぞ。

阿波内侍
上の山へ花つみに御いでにて候。

法皇
さて御供には。

内侍 大納言の局。
今少し待たせおはしまし候へ。やがて御帰にて候ふべし。

サシシテ
昨日もすぎ今日もむなしく暮れなんとす。明日をも知らぬ此身ながら。唯先帝の御面影。忘るゝ隙はよもあらじ。極重悪人無他方便。唯称弥陀得生極楽。主上を始め奉り。二位殿一門の人々成等正覚。南無阿弥陀仏。


や。庵室のあたりに人音の聞え候。

大納言局
暫くこれに御休み候へ。

内侍
唯今こそあの岨づたひを女院の御帰にて候。

法皇
さていづれが女院。大納言の局はいづれぞ。

内侍
花筐臂に懸けさせ給ふは。女院にてわたらせ給ふ。妻木に蕨折りそへたるは。大納言の局なり。


いかに法皇の御幸にて候。

シテ
なかなかになほ妄執の閻浮の身を。忘れもやらでうき名をまた漏せば漏るゝ涙の色。袖の気色もつゝましや。

地下歌
とは思へども法の人同じ道にと頼むなり。

上歌
一念の窓の前。一念の窓の前に。摂取の光明を期しつゝ十念の柴の枢には。聖衆の来迎を待ちつるに。思はざりける今日の暮。古に帰るかとなほ思出の涙かな。げにや君こゝに叡慮のめぐみ末かけて。あはれもさぞな大原や。芹生の里の細道朧の清水月ならで。御影や今に残るらん。

ロンギ地
さてや御幸のをりしもは。いかなる時節なるらん。

シテ
春過ぎ夏もはや。北祭のをりなれば。青葉にまじる夏木立春の名残ぞをしまるゝ。


遠山にかゝる白雲は。

シテ
散りにし花のかたみかや。


夏草のしげみが原のそことなく。分け入り給ふ道の末。

シテ
こゝとてや。こゝとてや。げに寂光の静かなる。光の陰を惜めただ。


光の影も明らけき。玉松が枝に咲き添ふや。

シテ
池の藤波夏かけて。


これも御幸を。

シテ
待ちがほに。


青葉がくれの遅桜初花よりもめづらかに。なかなか様かはる有様をあはれと。叡慮にかけまくも。かたじけなしやこの御幸柴の枢のしばしがほどもあるべき住居なるべしや。あるべき住居なるべし。

シテ
思はずも。深山の奥の。住まひして。雲居の月をよそに見んとは。かやうに思ひ出でしに。此山里までの御幸。かへすがへすも有難うこそ候へ。

法皇詞
さいつ頃ある人の申せしは。女院は六道の有様まさに御覧じけるとかや。仏菩薩の位ならでは見給ふ事なきに不審にこそ候へ。

シテ
勅諚はさる御事なれども。つらつら我が身を案じ見るに。

クリ
それ身を観ずれば岸の額に根を。離れたる草。


命を論ずれば、江のほとりに繋がざる舟。

シテサシ
されば天上の楽も。身に白露の玉かづら。


ながらへ果てぬ年月も。つひに五衰のおとろへの。

シテ
消えもやられぬ。命のうちに。


六道のちまたに。迷ひしなり。

クセ
まづ一門。西海の波に浮き沈み。よるべも知られぬ船の中。海に臨めども。潮なれば飲水せず。餓鬼道の如くなり。又ある時は。汀の波の荒磯に。打ちかへすかの心地して船こぞりつゝ泣き叫ぶ。声は叫喚の罪人もかくやあさましや。

シテ
陸の争ある時は。


これぞ誠に目の前の。修羅道の戦あら恐ろしや数々の。駒の蹄の音聞けば。畜生道の有様を。見聞くも同じ人道の。苦となりはつる憂き身の果てぞ悲しき。

法皇詞
げに有難き事どもかな。先帝の御最期の有様。何とか渡り候ひつる御物語り候へ。

シテ語
恥かしながら語つて聞かせ申し候ふべし。其時の有様申すにつけて恨めしや。長門の国早鞆とやらんにて。筑紫へ一先落ちゆくべきと一門申し合ひしに。緒方の三郎が心がはりせしほどに。薩摩潟へや落さんと申しゝをりふし。上り汐にさへられ。今はかうよと見えしに。能登の守教経は。安芸の太郎兄弟を左右の脇に挟み。最期の供せよとて海中に飛んで入る。新中納言知盛は。


沖なる船の碇を引き上げ。兜とやらんに戴き。乳母子の家長が弓と弓とを取りかはし。其まゝ海に入りにけり。其時二位殿鈍色の二つ衣に。練袴のそば高く挟んで。我が身は女人なりとても。敵の手には渡るまじ。主上の御供申さんと。安徳天皇の御手を取り舷に臨む。いづくへ行くぞと勅諚ありしに。此国と申すに逆臣多く。かくあさましき処なり。極楽世界と申して。めでたき所の此波の下にさむらふなれば。御幸なし奉らんと。泣く泣く奏し給へば。さては心得たりとて。東に向はせ給ひて。天照大神に御暇申させ給ひて。


又。十念の御為に西に向はせおはしまし。

シテ
今ぞ知る。地「御裳濯川の流には。波の底にも都ありとはと。これを最期の御製にて。千尋の底に入り給ふ自も。つづいて沈みしを。源氏の武士とりあげてかひなき命ながらへ。二度。龍顔に逢ひ奉り。不覚の涙に袖をしほるぞ恥かしき。


いつまでも御名残はいかで尽きぬべき。はや還幸とすゝむれば。はや還幸とすゝむれば。御輿を早め遥々と。寂光院を出で給へば。

シテ
女院は柴の戸に。

地 暫しが程は見送らせ給ひて御庵室に入り給ふ御庵室に入り給ふ。