能の詞章

■安宅 謡
ワキ詞
かやうに候ふ者は。加賀の国富樫の何某にて候。扨も朝頼義経御中不和にならせ給ふにより。判官殿十二人の作り山伏となつて。奥へ御下向の由頼朝きこしめし及ばれ。国々に新関{しんせき}を立てゝ。山伏をかたく簡び申せとの御事にて候。さる間・此処をば某承つて山伏を留め申し候。今日も固く申しつけばやと存じ候。いかに誰かある。

狂言
御前に候。

ワキ
今日も山伏の御通あらばこなたへ申し候へ。

狂言
畏つて候。

シテツレ
旅の衣は篠懸の。旅の衣は。篠懸の露けき袖やしをるらん。

サシ
鴻門楯破れ都の外の旅衣。日も遥々の越路の末。おもひやるこそ遥なれ。

シテ
さて御供の人々には。

ツレ地
伊勢の三郎駿河の次郎。片岡増尾常陸坊。

シテ
弁慶は先達の姿となりて。

ツレ地
主従以上十二人。いまだ習はぬ旅姿。袖の篠懸露霜を。今日分けそめていつまでの。限もいさや白雪の。越路の春にいそぐなり。


時しも頃は二月の。二月十日の夜月の都を立ち出でて。これやこの。行くも帰るも別れては。行くも帰るも別れては。知るも知らぬも。逢坂の山隠す。霞ぞ春は。恨めしき霞ぞ春はうらめしき。

下歌
波路遥に行く舟の。波路遥に行く舟の。海津の浦に着きにけり。東雲はやく明け行けば浅茅色づく・有乳山{あらちやま}。

上歌
気比の海。宮居久しき神垣や。松の木芽山{きのめやま}。なほ行くさきに見えたるは。・杣山人{そまやまびと}の板取。河瀬の水の。麻生津や。末は三国の湊なる。蘆の篠原波よせて。靡く嵐の烈しきは。花の安宅に着きにけり花の安宅に着きにけり。

シテ詞
御急ぎ候ふほどに。これははや安宅の湊に御着にて候。しばらく此処に御休あらうずるにて候。

子方
如何に弁慶。

シテ
御前に候。

子方
唯今旅人の申して通りつる事を聞いてあるか。

シテ
いや何とも承らず候。

判官
安宅の湊に新関を立てて。山伏を固く簡ぶとこそ申しつれ。

シテ
言語道断の御事にて候ふものかな。さては御下向を存じて立てたる関と存じ候。これはゆゝしき御大事にて候。まづ此傍にて暫く御談合あらうずるにて候。是は一大事の御事にて候ふ間。皆々心中の通を御意見御申しあらうずるにて候。

ツレ
我等が心中には何程のことの候ふべき。たゞ打ち破つて御通あれかしと存じ候。

シテ
暫く。仰の如くこの関一所打ち破つて御通あらうずるは易き事にて候へども。御出で候はんずる行末が御大事にて候。唯何ともして無異{ぶい}の義が然るべからうずると存じ候。

子方
ともかくも弁慶はからひ候へ。

シテ
畏つて候。某・急度{きつと}案じいだしたる事の候。我等を始めて皆々につくい山伏にて候ふが。何と申しても御姿隠れ御座なく候ふ間。此まゝにては如何と存じ候。恐れ多き申事にて候へども。

御篠懸をのけられ。あの・強力{がうりき}が負ひたる笈をそと御肩に置かれ。御笠を深々と召され。如何にもくたびれたる御体{おんてい}にて。我等より後に引きさがつて御通り候はば。なかなか人は思もより申すまじきと存じ候。

子方
実にこれは尤もにて候。さらば篠懸を取り候へ。

シテ
畏つて候。いかに強力。

狂言
畏つて候。

シテ
笈を持ちて来り候へ。

狂言
畏つて候。

シテ
汝が笈を御肩に置かるゝ事は。なんぼう冥加もなき事にてはなきか。先汝は先へ行き関の・様体を見て。まことに山伏を・簡ぷか。又さやうにもなきか懇に見て来り候へ。

狂言
畏つて候。

シテ
さらば御立あらうずるにて候。実にや紅は園生に植ゑても隠なし。

ツレ地
強力にはよも目を懸けじと。御篠懸を脱ぎ替へて。麻の衣を御方にまとひ。

シテ
あの強力が負ひたる笈を。

子方
義経取つて肩に懸け。

ツレ地
笈の上には雨皮肩箱取りつけて。

子方
綾菅笠{あやすげがさ}にて顔をかくし。

ツレ地
金剛杖にすがり。

子方
足痛げなる強力にて。


よろよろとして歩み給ふ御ありさまぞ痛はしき。

シテ詞
我等より後に引き下つて御出あらうずるにて候。さらば皆々御通り候へ。

ツレ
承り候。

狂言(従者)
如何に申し候。山伏達の大勢御通り候。

ワキ詞
何と山伏の御通あると申すか。心得てある。なうなう客僧達これは関にて候。

シテ
承り候。これは南都東大寺建立の為に。国々へ客僧をつかはされ候。北陸道をば此客僧承つて罷り通り候。先ず勧に御入り候へ。

ワキ
近頃殊勝に候。勧には参らうずるにて候去りながら。これは山伏達に限つて留め申す関にて候。

シテ
さて其謂は候。

ワキ
さん候頼朝義経御中不和にならせ給ふにより。判官殿は奥秀衡を頼み給ひ。十二人の作山伏となつて。御下向の由其聞え候ふ間。国々に新関を立てゝ。山伏を固く・簡ぴ申せとの御事にて候。さる間・此処をば某承つて山伏を留め申し候。殊にこれは大勢御座候ふ間。一人も通し申すまじく候。

シテ
委細承り候。それは作山伏をこそ留めよと仰せいだされ候ひつらめ。よも真の山伏を留めよとは仰せられ候ふまじ。

狂言(従者)
いや昨日も山伏を三人迄切つたる上は。

シテ
さて其切つたる山伏は判官殿か。

ワキ
あらむつかしや問答は・無益。一人も通し申すまじい上は・候。

シテ
さては我等をもこれにて誅せられ候はんずるな。

ワキ
なかなかの事。

シテ

ツレ地
承り候。

シテノツト
いでいで最後の勤を始めん。夫れ山伏といつぱ。役の優婆塞の行義を受け。

ツレ
其身は不動明王の尊容をかたどり。

シテ
兜巾{ときん}といつぱ五智の宝冠なり。十二因縁ののひだをすゑて戴き。

シテ
九会曼荼羅の柿の篠懸。

ツレ地
胎蔵黒色のはゞきをはき。

シテ
さて又八目の草鞋{わらんづ}は。

ツレ地
八葉の蓮華を踏まへたり。

シテ
出で入る息に・阿吽{あうん}の二字をとなへ。

ツレ地
即心即仏の山伏を。

シテ
こゝにて討ちとめ給はん事。

ツレ地
明王の照覧はかりがたう。

シテ
熊野権現の御罰を当らん事。

ツレ地
立ちどころにおいて。

シテ
疑あるべと押しもめば。
ワキ詞
近頃殊勝に候。先に承り候ひつるは。南都東大寺の勧進と仰せ候ふ間。せめて勧進帳の御座なき事は候ふまじ。勧進帳を遊ばされ候へ。これにて聴聞申さうずるにて候。

シテ
何と勧進帳を読めと候ふや。

ワキ
なかなかの事。

シテ
心得申して候。もとより勧進帳はあらばこそ。笈の中より往来の巻物一巻取りいだし。勧進帳と名づけつゝ。高らかにこそ読み上げけれ。夫れつらつら。

シテツレ地
惟{おも}ん見れば大恩教主の秋の月は。涅槃の雲に隠れ生死{しやうじ}長夜の長き夢。驚かすべき人もなし。こゝに中頃・帝{みかど}おはします。御名をぱ。聖武皇帝と。名づけ奉り最愛のの。夫人に別れ。恋慕やみがたく。涕泣・眼に荒く。涙{なんだ}玉を貫く思ひを。善途に翻して廬遮那仏を建立す。かほどの霊場の。絶えなん事を悲しみて。俊乗房重源。諸国を勧進す。一紙半銭の。・奉財の輩は。この世にては無比の楽に誇り当来にては。数千蓮華の上に坐せん帰命・稽首{けつしゆ}。敬つて白すと天も。響けと読み上げたり。

ワキ
関の人々肝を消し。


恐をなして通しけり恐をなして通しけり。

ワキ詞
急いで御通り候へ。

シテ詞
承り候。

狂言
如何に申し上げ候。判官殿の御通り候。

ワキ
いかに是なる強力とまれとこそ。

ツレ地
すは我が君をあやしむるは。一期の浮沈極りぬと。


みな一同に立ち帰る。

シテ詞
あゝ暫く。あわてゝ事を仕損ずな。やあ何とてあの強力は通らぬぞ。

ワキ
あれは・此方より留めて候。

シテ
それは何とて御とめ候ふぞ。

ワキ
あの強力がちと人に似たると申す者の候ふ程に。さて留めて候ふよ。

シテ
何と人が人に似たるとは。珍しからぬ仰にて候。さて誰に似て候ふぞ。

ワキ
判官殿に似たると申す者の候ふ程に。落居{らくきよ}の間留めて候。

シテ
や。言語道断。判官殿に似申したる強力めは一期の思出な。腹立や日高くは。能登の国まで指さうずると思ひつるに。わづかの笈負うて後に下ればこそ人も怪しむれ。総じて此程。につくしにくしと思ひつるに。いで物見せてくれんとて。金剛杖をおつ取つて散々に・打擲{ちやうちやく}す通れとこそ。や。笈に目を懸け給ふは。・盗人ざうな。

ツレ地
かたがたは何故に。かたがたは何故に。かほど賤しき強力に。太刀刀ぬき給ふはめだれ顔の振舞は。臆病の至りかと。十一人の山伏は。打刀ぬきかけて。勇みかゝれる有様は。如何なる天魔鬼神も。恐れつべうぞ見えたる。

ワキ
近頃誤りて候。はやはや通り給へ。

シテ詞
先の関をば早・抜群に程隔たりて候ふ間。・此処に暫く御休みあらうずるにて候。皆々近う御参り候へ。いかに申し上げ候。さても唯今は余りに難義に候ひし程に。不思議の働きを仕り候ふ事。これと申すに君の・御運尽きさせ給ふにより。今弁慶が杖にも当らせ給ふと思へば。 いよいよあさましうこそ候へ。

子方詞
さては悪しくも心得ぬと存ず。いかに弁慶。さても唯今の機転更に凡慮より為すわざにあらず。唯天の御加護とこそ思へ。関の者ども我を怪しめ。生涯限ありつる所に。とかくの是非をばもんだはずして。唯真の下人の如く。散々に打つて我を助くる。これ弁慶が謀にあらず八幡の。


御託宣かと思へば忝くぞおぼゆる。

地クリ
夫れ世は末世に及ぶといへども。日月はいまだ地に落ち給はで。たとひ如何なる方便なりとも。正しき主君を打つ杖の天罰に。当らぬことやあるべき。

子方サシ
実にや視在の果を見て過去未来を知ると云ふこと。


今に知られて身の上に。憂き・年月の二月や。下の十日の今日の難を遁れつるこそ不思議なれ。

子方
唯さながらに十余人。


夢の覚めたる心地して。互に面を合はせつゝ。泣くばかりなる。有様かな。

クセ
然るに義経。弓馬の家に生れ来て。命を頼朝に奉り。屍を西海の波に沈め。山野海岸に起き臥し明かす・武士の。鎧の袖枕。かたしく隙も波の上。ある時は舟に・浮び。風波に身を任せ。ある時は山脊の。馬蹄も見えぬ雪の中に。海少しある夕波の立ちくる音や須磨明石の。とかく三年の程もなく。敵を亡ぼし靡く世の。其忠勤も徒らに。なりはつる此身の。そも何といへる因果ぞや。

判官
実にや思ふ事。叶はねばこそ憂き世なれと。


知れどもさすがなほ。思ひ返せば梓弓の。すぐなる。人は苦しみて。讒臣は。弥増{いやまし}に世に在りて。遼遠東南の雲を起し。西北の雪霜に。責められ埋る憂き身を。ことわり給ふべきなるに唯世には。神も。仏もましまさぬかや。恨めしの憂き世やあら恨めしの憂き世や。

ワキ詞
如何に誰かある。

狂言(従者)
御前に候

ワキ
さても山伏達に・聊爾{れうじ}を申して。余りに面目もなく候ふ程に。追つ付き申し酒を一つ参らせうずるにてあるぞ。汝は先へ行きて留め申し候へ。

狂言
畏つて候。いかに申し候。先には聊爾を申して余りに面目もなく候ふとて。関守のこれまで酒を持たせて参られて候。

シテ詞
言語道断の事。やがて御目に懸らうずるにて候。

狂言

シテ詞
実に実に是も心得たり。人の情の盃に。うけて心を取らんとや。これにつきてもなほなほ人に。心なくれそ・呉織{くれはとり}。


怪しめらるな面々と。弁慶に諌められて。此山陰の・一宿{ひとやどり}に。さらりと円居{まどゐ}して。処も山路の菊の酒を飲まうよ。

シテ
おもしろや・山水に。


おもしろや山水に。盃を浮べては。・流に引かゝる・曲水の。手まづさへぎる袖ふれていざや舞を舞はうよ。本より弁慶は。三塔の・遊僧。


シテ
延年の時のわか。これなる山水の。落ちて巌に響くこそ。


鳴るは瀧の水。

シテ詞
たべ酔ひて候ふ程に。先達御酌に参らうずるにて候。

ワキ詞
さらばたべ候ふべし。とてもの事に先達一さし御舞ひ候へ。


鳴るは瀧の水。

シテ
鳴るは瀧の水。

日は照るとも。絶えずとうたり。絶えずとうたりとくとく立てや。・手束弓{たつかゆみ}の。心ゆるすな。関守の人々。暇申してさらばよとて。笈をおつ取り。肩に打ち懸け。虎の尾を履み毒蛇の口を。遁れたる心地して。陸奧の国へぞ。下りける。