ワキ詞
これは天竺波羅那国の帝王に仕へ奉る臣下なり。偖も此国の傍に。一人の仙人あり。鹿の胎内に宿り出生せし故により。額に角一つ生ひ出でたり。
これによつて其名を一角仙人と名づく。さる子細あつて竜神と威を争ひ。仙人神通を以て諸竜を悉く岩屋の内に封じこむる間。
数月雨下らず候。帝此事を歎き給ひ。いろいろの御方便をめぐらし給ひ候。ここに旋陀夫人とて並びなき美人の御座候ふを。踏み迷ひたる旅人の如くにして。
仙境に分け入り給はゞ。夫人に心を移し。神通を失ふ事もあるべきとの御方便により。夫人を具し奉り。唯今彼の山路に分け入り候。
一セイ
山遠うしては雲行客の跡を埋み。松寒うしては風旅人の。夢をもやぶる。仮寝かな。
上歌
露時雨。もる山陰の下紅葉。もる山陰の下紅葉。色そふ秋の風までも。身にしみまさる旅衣。霧間を凌ぎ雲を分け。たづきも知らぬ山中に。おぼつかなくも踏み迷ふ。
道の行くへはいかならん道の行くへはいかならん。
詞
日を重ねて急ぎ候ふ程に。いづくとも知らぬ山路に分け入りて候ふぞや。こゝに怪しき巌の陰より。吹き来る風のかうばしく。松桂の枝を引き結びたる庵あり。
若し彼の仙境にてもや候ふらん。暫く此あたりに徘徊し。事の由を窺はゞやと思ひ候。
シテサシ
瓶には谷漣一滴の水を納め。鼎には青山数片の雲を煎ず。曲終へて人見えず。江上数峯青かりし。梢も今は。紅の。秋の気色はおもしろや。
ワキ詞
いかに此庵の内に申すべき事の候。
シテ
不思議やこゝは高山重畳として。人倫通はぬ処なり。そも御身はいかなる者ぞ。
ワキ
これは唯山路に踏み迷ひたる旅人なるが。日もやうやう暮れかゝり前後を忘じて候。一夜の宿を御貸し候へ。
シテ
さればこそ人間の交あるべき処ならず。とくとく帰り給へとよ。
ワキ
そも人間の交なきとは。さては天仙の栖やらん。まづまづ姿をみせ給へ。
シテ
此上は恥かしながら我が姿。旅人にまみえ申さんと。
地上歌
柴の扉を推し開き。柴の扉を推し開き。立ち出づる其姿。緑の髪も生ひ上る。牡鹿の角の。束の間も仙人を。今見る事ぞ不思議なる。
ワキ詞
唯今思ひ出して候。これは承り及びたる一角仙人にて御座候ふか。
シテ さん候これこそ一角と申す仙人にて候。さてさて面々を見申せば。世の常の旅人にあらず。さも美しき宮女の貌。桂の黛羅綾の衣。更に唯人とは見え給はず候。
これはいかなる人にてましますぞ。
ワキ
さきに申す如く。踏み迷ひたる旅人にて候。旅の疲の慰に。酒を持ちて候。一つ聞しめされ候へ。
シテ
いや仙境には松の葉を好き。苔を身に着て桂の露を嘗め。年経れども不老不死の此身なり。酒を用ふる事あるまじ。
ワキ 尤も仰はさる御事なれども。唯志を受け給へと。夫人は酌に立ち給ひ。仙人に酒を勧むれば。
シテ詞
げに志を知らざらんは。鬼畜には猶劣るべしと。
地上歌
夕の月の盃を。夕の月の盃を。受くる其身も山人の。折る袖匂ふ菊の露。うち払ふにも千代は経ぬべき。契はけふぞ始なる。
ツレ
おもしろや盃の。
地
面白や盃の。めぐる光も照りそふや。紅葉襲の袂を共に翻し翻す。舞楽の曲ぞおもしろき。
楽
地
糸竹の調とりどりに。糸竹の調とりどりに。さす盃も。度々廻れば。夫人の情に心を移し。仙人は次第に足弱車の。廻るもたゞよふ舞の袂を片しき臥せば。
夫人は悦び官人を引き連れ遥々なりし山路を凌ぎ。帝都に帰らせ給ひけり。
地
かゝりければ岩屋の内頻に鳴動して天地も響く。ばかりなり。
シテ
あら不思議や思はずも。人の情の盃に。酔ひ臥したりし其隙に。竜神を封じこめ置きし。岩屋の俄に鳴動するは。何の故にてあるやらん。
ツレ
いかにやいかに一角仙人。人間に交はり心を迷はし。無明の酒に酔ひ臥して。神力を失ふ天罰の。報の程を思ひ知れ。
地上歌
山風あらく吹き落ちて。山風あらく吹き落ちて。空かき曇り。岩屋も俄にゆるぐと見えしが磐石四方に破れ砕けて。諸竜の姿は。現れたり。
シテ
其時仙人驚き騒ぎ。
舞働
地
其時仙人驚き騒ぎ。利剣をおつとり立ち向へば。竜王は黄金の甲冑を帯し。玉具の剣の刃先を揃へ。一時が程は闘ひけるが。仙人神通の力も竭きて。次第に弱り。
倒れ伏せば。竜王悦び雲を穿ち。雷鳴電天地に満ちて。大雨を降らし。洪水を出して。立つ白浪に。飛び移り。立つ白波に。飛び移つて。また竜宮にぞ帰りける。
以上
■一角仙人 謡