■「藤戸」の作者・背景
・作者は不詳であるが、一部では元雅の作品ではないか?と言われている。
・『平家物語』第十巻「藤戸」をもとに脚色されており、「戦というものは、人間の心を歪めてしまう。そこから悲劇が生みだされる。」ということを能としてのテーマとしている。
殺された者、遺された者の視点から物語が綴られており、男の母を登場させ、いつの時代も変わることのない、我が子を思う母の心を、また戦の陰で罪も無く死んでいった男の哀れさを描き出している。
口封じのために民を殺害することは、当時の常套的な戦いの手段であり、仕方の無かったことであるとは言いながらも、その悲惨さ、運命に対してどうすることもできない民の悲しみを描いたところに、本作の特徴がある。
※通常で「一人殺せば殺人」であるが、戦争では「多数殺した人」は「英雄」となる。
■見どころ
①ドラマ的に優れた曲
写実性が高く、舞事の入る能とは違い、芝居仕立てになっている。
※動きを抑えているだけに、内側に思いが溢れる表現がなければ、何も伝わらない。
②救われない者の悲劇と祈りを少ない動きで表現している
・救いのない、暗い舞台が展開されてゆく。前場で領主・盛綱に詰め寄る母の悲痛さ、後場で氷のような刃で刺し通される男の亡霊の苦しみ、そのような絶望的境涯からの「祈り」が、本作のテーマ となっていると言える。
※最初から最後まで、美しい舞もなければ優雅なシーンも皆無であり、実に暗い舞台である。
③緊張場面のやりとり
・殺せと詰め寄る前シテの迫力、恨み骨髄に徹して挑みかかろうとする後ジテの権幕、そして、それに必死になって対抗しようとするワキ盛綱の毅然たる身構えなど、緊張する場面展開に注目。
≪前場≫
場所:備前国 児島 藤戸
■ワキ・ワキツレ登場。
登場楽:「次第」。
・装束:直垂上下出立
先陣の功で備前の児島を賜った由を述べ、訴訟ある者は名乗り出るようワキツレに触れを出させます。
春の明るい、のどかな日に「颯爽」と登場する。
※この土地が自分のものになった!という「意気揚々」とした気持ちである。
■前シテ登場。・・・生きている漁師の母である。
・「登場楽」は「一声」
・装束:唐織着流女出立(一般的な女性の扮装)
面 :曲見→年配を表す母の顔である一方、悲しみをたたえた顔でもある。
・「確信」は持てないが、「自分の子供が殺されたのではないか?」ということを訴えるために登場。
※゛訴えるぞ!」という強い気持ちを持っている。ワキから気をそらさない!
◎「我が子を海の底に沈めたことの、恨み言を申しに参りました」と。
●母と三郎盛綱との対峙
・記憶に無いとしらを切る盛綱に、老女はさらに詰め寄る。「せめては息子の亡き後を弔って下さるならば、少しは恨みも晴れましょうものを」
漁師の母(シテ)が登場し、「昔の春に戻りたい」さめざめとシオル(泣くことを表す型)と、ワキは訴訟ある者と見て尋ねます。我が子を海に沈められた恨みのために来たと訴え進み出るシテと、その言葉を遮るワキの緊迫した場面となります。
※とくに盛綱の謡に注目。
地謡「住み果てぬ・・・」は、子を失った母の悲しみが表現され、心打たれたワキは真相を告白します。
★ク セの場面は、子に先立たれ生きる支えを失った母がついには感情の高まるまま「我が子と同じ道になして」(同じ様に殺して欲しい)と詰め寄り、ワキに払い 退けられて伏し、「我が子返させ給え」と両手を差し延べる所は、哀惜極まりない母の心情を余すところなく表しています。
※面の使い方が効果的である。
・悲しみは「クモらせる」ことで表現する。反面「自分の子供を返して欲しい!」という強い気持ちは、ワキに向かって顔を上げるとともに、体全体を起こして睨みつけている。
☆観念した盛綱は、さきの児島での戦いの様子を語って聞かせる。
去る3月25日。私は浦の男を呼び出し、この海の中に馬で渡れる所はあるかと尋 ねた。男は浅瀬があると教えてくれたので、喜んだ私は家来にもひた隠し、その夜、男と二人でその浅瀬に赴いた。その時私は「このような賤しい者は他の人に も教えてしまうだろう。手柄を独り占めする為には、気の毒だが…」と、男をその場で刺し殺し、海に沈めたのであった。そなたが、あの男の母なのだな。これ も運命、今は恨みを晴らしてくれよ…。
●すがる気持ちの表現
・ワキのもとへ行ってすがる。
「さては、人から聞いた通りであったか」と老女は嘆息する。「老少不定の世の中で、子に先立たれた老いの身、今は生きていても何の甲斐がありましょう。
あの子と共にいた二十余年は、今となっては夢のようなもの。頼みに思っていた我が子がこの世を去って、今は何をたよりに生きてゆけばよいのでしょう。
いっそあの子と同じように、私も殺してくださりませ…!」老女は人目もはばからず号泣し、わが子を返せと取り乱すのであった。
・ワキはシテに弔いと、残された身内を助けることを約束し、下人(間狂言)に家に送るよう命じます。
泣き崩れる老女を見て気の毒に思った盛綱は、男の供養とその妻子の扶養を約束し、「今となっては恨んでも仕方のないこと」と、下人(間狂言)に命じて老女を自宅まで送ってやる。そののち盛綱は、男のために管絃の供養をおこなうべく、準備を始める。
《中入り》
◯アイ登場
≪後場≫
■後シテ登場。・・・暗く、陰気に・・・
・ワキ・ワキツレが弔ううちに、「登場楽」の「一声」で登場
・装束:水衣着流、腰蓑(男の亡霊の扮装)、黒頭、杖。
※腰蓑は生前の漁師の姿を表している。
※茫々とした黒頭と〈痩男〉の面は、シテが迷える亡者であることを表しています。
・面 :痩せ男
☆死人の相を写したと云われ、地獄の責め苦に憔悴した相貌です。黒頭は妖怪、幽鬼の類を表します。
・「盛綱どの、お弔いは有難いが、妄執は未だ晴れやらぬ…。その恨み言を申しに、これまで参ったのでございます。」
◎その場の再現
・シテは殺された時の有様を再現して見せます。
☆杖を太刀に見立てて突き刺す表現
・貴方がこの島を賜るほどの名誉を得たのも、私のおかげ。その褒美すら無いばかりか、命までも召されたのは、馬で海を渡るにもまして稀代のことでありましょ う。氷のような刃でズブリ、ズブリと刺し通され・・・
☆海に沈められて漂う表現は具体的な型で表されている。
●やがて…成仏へ
そのまま海の底に沈められた私は、波に流され岩の狭間に引っかかり、悪龍の水神となって、恨みを晴らそう と思っていたのだが…、
「思いの外に弔いを受け、その功徳によって、成仏の身を得ることができました」そう言うと、藤戸の悪龍は消え失せていったのであった。
以上
❑「藤戸」