ワキ次第
行方さだめぬ道なれば。行方さだめぬ道なれば。来し方も何くならまし。


是は一処不住の沙門にて候。我此ほど信濃の国に候ひしが。余りに雪深くなり候ふほどに。まづ此度は鎌倉に上り。
春になり修行に出でばやと思ひ候。

道行
信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。浅間の嶽に立つ煙遠遠近人の袖寒く。吹くや嵐の大井山捨つる身になき友の里。
今ぞ浮世を離坂。墨の衣の碓氷川。下す筏の板鼻や。
佐野の渡に。着きにけり佐野の渡につきにけり。


急ぎ候ふほどに。上野の国佐野の渡に着きて候。あら笑止や又雪の降り来りて候。此処に宿を借らばやと思ひ候。いかに此屋の内へ案内申し候。


ツレ
誰にてわたり候ふぞ。

ワキ
これは修行者にて候。一夜の宿を御かし候へ。

ツレ
安き御事にて候へども。主の御留守にて候ふほどに。御宿は叶ひ候ふまじ。

ワキ
さらば御帰までこれにこれに待ち申さうずるにて候。

ツレ
それはともかくもにて候。わらはは外面へ出で迎ひ。此由を申さばやと思ひ候。

シテ
あゝ降つたる雪かな。如何に世にある人の面白う候ふらん。それ雪は鵞毛に似て飛んで散乱し。
人は鶴(しやう)を着て立つて徘徊すと言へり。されば今ふる雪も。
もと見し雪にかはらねども。我は鶴を着て立つて徘徊すべき。袂も朽ちて袖せばき。細布衣陸奥の。
けふの寒さを如何にせん。あら面白からずの雪の日やな。


あら思ひよらずや。此大雪に何とてこれに佇みて御入り候ふぞ。

ツレ
さん候修行者の御入り候ふぞ。一夜の御宿と仰せ候ふほどに。御留守の由申して候へば。御帰まで御待あらうずるよし仰せ候ふほどに。これまで参りて候。

シテ
さてその修行者はいづくに渡り候ふぞ。

ツレ
あれに御入り候。

ワキ
我らが事にて候。いまだ日は高く候へども。余りの大雪にて前後を忘じて候ふほどに。一夜の宿を御かし候へ。

シテ
やすき程の御事にて候へども。余りに見苦しく候ふほどに。御宿は叶ひ候ふまじ。

ワキ
いやいや見苦しきは苦しからぬ事にて候。ひらに一夜を御かし候へ。

シテ
留め申したくは候へども。我等夫婦さへ住みかねたる体にて候ふほどに。なかなか御宿は思ひもよらぬ事にて候。
これより十八町あなたに。山本の里とてよき泊の候。日の暮れぬさきに一足もはやく御出で候へ。

ワキ
さてはしかと御借あるまじいにて候ふか。

シテ
御痛はしくは存じ候へども。御宿は参らせがたう候。

ワキ
あら曲もなや。よしなき人を待ち申して候ふものかな。

ツレ
あさましや我等かように衰ふるも。前世の戒行つたなき故なり。せめてはかやうの人に値遇申してこそ。
後の世の便ともなるべけれ。然るべくは御宿を参らさせ給ひ候へ。

シテ詞
さやうに思し召し候はゞ。何とて以前には承り候はぬぞ。いやいや此大雪に遠くは御出で候ふまじ。
某追附き留め申し候ふべし。なうなう旅人御宿参らせうなう。
余りの大雪に申す事も聞えぬげに候。痛はしの御有様やな。もと降る雪に道を忘れ。今ふる雪に行方を失ひ。
一処に佇みて。袖なる雪を打ち払ひ打ち払ひし給ふ気色。古歌の心に似たるぞや。
駒とめて袖うちはらふ陰もなし。


佐野の渡の雪の夕暮れ。かやうによみしは大和路や。三輪が崎なる佐野のわたり。

地下歌
これは東路の。佐野の渡の雪の暮に迷ひつかれ給はんより。見ぐるしく候へど一夜は泊り給へや。

上歌
げにこれも旅の宿。げにこれも旅の宿。仮初ながら値遇の縁。一樹の蔭のやどりも此世ならぬ契なり。それは雨の木蔭これは雪の軒ふりて。
憂き寝ながらの草枕。夢より霜や結ぶらん。夢より霜やむすぶらん。

シテ
いかに申し候。お宿は申して候へども。何にても候へ参らせうずる物もなく候ふはいかに。

ツレ
をりふしこれに粟の飯の候ふほどに。苦しからずはまいらせられ候へ。

シテ
さらば其由申し候ふべし。いかに申し候。御宿をば参らせて候へども。何にても参らせうずる物もなく候。
をりふしこれに粟の飯のあるよし申し候。苦しからずは聞し召され候へ。

ワキ
それこそ日本一の事にて候賜はり候へ。

シテ
なうきこし召されうずると仰せ候。急いで参らせられ候へ。

ツレ
心得申し候。

シテ
総じて此粟と申す物は。古世にありし時は。歌に詠み詩に作りたるをこそ承りて候ふに。今は此粟をもつて身命を継ぎ候。げにや盧生が見し栄花の夢は五十年。
その邯鄲の仮枕。一炊の夢のさめしも。粟飯かしく程ぞかし。あはれやげに我もうちも寝て。夢にも昔を見るならば。慰む事もあるべきに。
なう御覧ぜよかほどまで。


住みうかれたる故郷の。松風寒き夜もすがら。寝られねば夢も見ず。何思出のあるべき。

シテ詞
夜の更くるについて次第に寒くなり候。何をがな火に焚いてあて参らせ候ふべき。や。思ひ出したる事の候。鉢の木を持ちて候。
これを切り火に焚いてあて申し候ふべし。

ワキ
げにげに鉢の木の候ふよ。

シテ
さん候某世にありし時は。鉢の木に好き数多木を集め持ちて候ひしを。かやうの体に罷りなり。いやいや木ずきも無用と存じ。皆人に参らせて候さりながら。
今も梅桜松を持ちて候。あの雪もちたる木にて候。某が秘蔵にて候へども。今夜のおもてなしに。これを火に焚きあて申さうずるにて候。

ワキ
いやいやこれは思ひもよらぬ事にて候。御志はありがたう候へども。自然又おこと世に出で給はん時に御慰にて候ふ間。なかなか思ひもよらず候。

シテ
いやとても此身は埋木の。花咲く世に逢はん事。今此身にてあひ難し。

ツレ
唯いたづらなる鉢の木を。御身の為に焚くならば。

シテ
これぞ誠に難行の。法の薪と思し召せ。

ツレ
しかも此程雪ふりて。

シテ
仙人に仕へし雪山の薪。

ツレ
かくこそあらめ。

シテ
我も身を。


捨人の為の鉢の木切るとてもよしや惜からじと。雪打ち払ひて見れば面白やいかにせん。先冬木より咲きそむる。
窓の梅の北面は。雪封じて寒きにも。
異木よりまづ先だてば梅を切りや初むべき。見じといふ。人こそうけれ山里の。折りかけ垣の梅をだに。
情なしとをしみしに。今更薪になすべしとかねて思ひきや。

クセ
桜を見れば春ごとに。花すこし遅ければ。此木やわぶると心をつくし育てしに。今は我のみわびて住む。
家桜きりくべて緋桜になすぞ悲しき。

シテ
さて松はさしもげに。


枝をため葉をすかして。かゝりあれと植ゑ置きし。そのかひ今は嵐吹く。松はもとより常磐にて。薪となるは梅桜。
切りくべて今ぞ御垣守。衛士の焚く火はお為なりよくよりてあたり給へや。

ワキ詞
近頃よき火にあたり寒さを忘れて候。

シテ
御出により我等も火にあたりて候。

ワキ
いかに申し候。主の御苗字をば何と申し候ふぞ承りたく候。

シテ
いや某は苗字もなき者にて候。

ワキ
何と仰せ候ふとも。唯人とは見え給はず候。自然の時の為にて候。なにの苦しう候ふべき御苗字を承り候ふべし。

シテ
此上は何をか包み候ふべき。これこそ佐野の源左衛門の常世がなれの果にて候。

ワキ
それは何とてかやうのさんざんの体には御なりさふらふぞ。

シテ
其事にて候。一族どもに押領せられて。かやうの身となりて候。

ワキ
なうそれは何とて鎌倉へ御上り候ひて。其御沙汰は候はぬぞ。

シテ
運の尽くる所か。最明寺殿さへ修行に御出で候ふ上は候。かやうにおちぶれては候へども。御覧候へこれに物の具一領長刀一えだ。又あれに馬をも一匹つないで持ちて候。
これは只今にてもあれ鎌倉に御大事あらば。ちぎれたりとも此具足取つて投げかけ。錆びたりとも長刀を持ち。痩せたりともあの馬に乗り。一番に馳せ参じ着到に附き。
さて合戦始まらば。


敵大勢ありとても。敵大勢ありとても。一番に割つて入り思ふ敵と寄合ひ打合ひて死なん此身の。此侭ならば徒らに。飢に疲れて死なん命。何ぼう無念の事さうぞ。

ロンギワキ
よしや身の。かくては果てじ唯頼め。我世の中にあらんほど。又こそ参り候はめ暇申して出づるなり。

シテツレ
名残をしの御事や。始めはつゝむ我が宿の。さも見苦しく候へどしばしは留まり給へや。

ワキ
留まるは名残のまゝならば。さて幾たびか雪の日の。

シテツレ
空さへ寒き此暮に。

ワキ
いづくに宿を狩衣。

シテツレ
今日ばかり留まり給へや。

ワキ
名残は宿にとまれども。いとま申して。

シテツレ
御出でか。

ワキ さ
らばよ常世。

シテツレ
また御入。


自然鎌倉に御上あらば御尋あれ。けうがる法師なりかひがひしくはなけれども。披露の縁になり申さん。御沙汰捨てさせ給ふなといひすてゝ出船のともに名残や。
をしむらんともに名残や惜むらん。

中入早鼓間一声早笛

後シテ詞
いかにあれなる旅人。鎌倉へ勢の上るといふは誠か。何おびたゝしく上る。さぞあるらん。東八個国の大名小名。思ひ思ひの鎌倉入。
さぞ見事にて候ふらん。白金物打つたる糸毛の具足に。金銀をのべたる太刀刀。飼ひに飼うたる馬に乗り。乗替中間きらびやかに。
うちつれうちつ上る中に。常世が常にかはりたる馬物具や打物の。物其ものにあらざる気色に。さぞ笑ふらんさりながら。所存は誰にも劣るまじと。
心ばかりは勇めども。勇みかねたる痩馬のあら道おそや。


急げども。急げども。弱気に弱気。柳の糸の。

シテ
よれによれたる痩馬なれば。


打てどもあふれども。先へは進まぬ足弱車の乗り力なければ負ひかけたり。

後ワキ詞
いかに誰かある。

ワキツレ
御前に候。

ワキ
国々の軍勢どもは皆々来りてあるか。

ワキツレ
さん候悉く参りて候。

ワキ
其諸軍勢の中に。いかにもちぎれたる具足を着。さびたる長刀を持ち。痩せたる馬を自身ひかへたる武者一騎あるべし。急いで此方へ来れと申し候へ。

ワキツレ
畏つて候。いかに誰かある。

狂言
御前に候。

ワキツレ
君よりの御諚には。諸軍勢の中にちぎれたる具足を着。錆たる長刀を持ち。痩たる馬を自身控へたる武者有るべし。急いで尋ねて御前へ参れとの御事にて候。

狂言
畏つて候。いかに申し候。

シテ
何事にて候ふぞ。

狂言
急いで御前へ御参り候へ。

シテ
何と某に御前へ参れと候ふや。

狂言 な
かなかの事。

シテ
あら思ひよらずや。定めて人違にて候ふべし。

狂言
いやいや其方の事にて候。其子細は諸軍勢の中に。いかにも見苦しき武者をつれて参れとの御事にて候ふが。見申せば其方ほど見苦しき武者も候はぬ程に。
さて申し候。急いで御参り候へ。

シテ
何とたとへば諸軍勢の中に。いかにも見苦しき武者に参れと候ふや。

狂言
なかなかの事。

シテ
さては某が事にて候ふべし。畏つたると御申し候へ。

狂言 心
得申し候。

シテ
げにげにこれも心得たり。某が敵人謀叛人と申し上げ。御前に召し出され頭を刎ねられん為な。よしよしそれも力なし。いでいで御前に参らんと。大床さして見渡せば。

地 今
度の早打に。今度の早打に。上りあつまる兵きら星の如く並み居たり。さて御前には諸侍。其外数人並み居つゝ。目を引き指をさし笑ひあへる其中に。

シテ
横縫のちぎれたる。

地 古腹巻に錆長刀。やうやうに横たへ。わるびれたる気色もなく。参りて御前にかしこまる。


ワキ詞
やあ如何にあれなるは佐野の源左衛門の尉常世か。これこそいつぞやの大雪に宿かりし修行者よ。見忘れてあるか。いで汝佐野にて申せしよな。今にてもあれ鎌倉に御大事あるならば。
ちぎれたりとも其具足取つて投げ懸け。錆びたりとも其長刀を持ち。痩せたりともあの馬に乗り。一番に馳せ参るべきよし申しつる。言葉の末を違へずして。参りたるこそ神妙なれ。
先々今度の勢づかひ。全く余の義にあらず。常世が言葉の末。真か偽か知らんためなり。又当参の人々も。訴訟あらば申すべし。理非によつて其沙汰いたすべき所なり。先々沙汰の始めには
。常世が本領佐野の庄。三十余郷かへし与ふる所なり。又何よりも切なりしは。大雪ふつて寒かりしに。秘蔵せし鉢の木を切り。火に焚きあてし志をば。いつの世にかは忘るべき。
いで其時の鉢の木は。梅桜松にてありしよな。其返報に。加賀に梅田。越中に桜井上野に松枝。合はせて三箇の庄。子々孫々に至るまで。相違あらざる自筆の状。安堵に取り添へ給びければ。

シテ
常世は之を賜はりて。


常世は之を賜はりて。三度頂戴仕り。これ見給へや人々よ。始め笑ひしともがらも。これほどの御気色。さぞ羨ましかるらん。さて国々の諸軍勢。皆御いとま賜はり故郷へとてぞ帰りける。

シテ
其中に常世は。


其中に常世はよろこびの眉を開きつゝ。今こそ勇め此馬に。うちのりて上野や。佐野の舟橋とりはなれし。本領に安堵して。帰るぞうれしかりける帰るぞうれしかりける。

能の詞章

■鉢木 謡